○正史の『日本書紀』はなぜ、倭の五王に関する記事がないのか。
○倭王武の「上表文」
○朝鮮半島の強国「高句麗」
○五世紀半ば頃から台頭する新羅
1.正史の『日本書紀』はなぜ、倭の五王に関する記事がないのか。
「倭の五王」に関する中国史書
『宋書倭国伝』 西暦487年南朝梁の沈約(しんやく)の撰
『南斉書倭国伝』南朝梁の粛子顕(しょうしけん)が書いた紀伝体の史書。高帝の建元元年
(479)から和帝の中興二年(520)までの歴史が記されている。
『梁書倭国伝』中国南朝梁の歴史書。西暦629年陳の桃察(ようさつ)の遺志を継いで息子の
桃思廉(ようしれん)が成立させた。
以上の史書を『日本書紀』編纂者は目にしているはずですが、思わせぶりの記述はあるもの
の、直接的な記事は皆無です。
編纂を命じた天武天皇について、『日本書紀』編纂者は「倭国」の直系ではないことを知って
いたのでしょう。
2.倭王武の「上表文」
原文は純粋な漢文。訳文は『新丁 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 石原
道博編訳 岩波文庫』を参考にしています。
「(前略)代々、中国に朝宗し、歳をたがえあやまることはなかった。臣(=倭王武)は下愚ではある
が、かたじけなくも先諸(先人の事業)をつぎ、統(す)べるところを駆り率い、天極に帰宗(きす
う)し、道は百済を経て、もやい船を装いととのえた。(謙遜した表現で、実際は倭国の正装し
た船)ところが、句麗(=高句麗)は無道であって、見呑(けんのん)をはかることを欲し、辺隷をかす
めとり、虔劉してやまぬ。つねに滞りを致し、もって良風を失い、路に進んでも、あるいは通じ、
あるいは通じなかった.臣の亡考(亡父)済は、じつに仇かたきが天路を閉じ塞ぐのを怒り、弓
兵百万が正義の声に感激し、まさに大挙しようとしたが、急に父兄を失い、垂成の功(まさに成ら
んとする功)もいま一息のところで失敗に終わった。むなしく喪中にあり。兵を動かすことも出来
ず、休戦状態に陥り、まだ勝利することができません。今になって甲を練り、兵を治め、父兄の
志をのべたいと思います。(中略)ひそかに、自ら開府儀同三司を仮に与え、その余は仮に授け
て、もって忠節に励んでいます.(後略)」
重要な点は、「倭国は高句麗を征討するため、大軍事作戦を計画したものの、“済と武の兄”は
急に亡くなったことです。
上表文からは、朝鮮半島へ渡海したと言う記述もなく、『南朝史(宋・斉・梁)・北朝史(北
魏)』も同様に倭国が朝鮮半島に渡海し、高句麗軍との戦闘に関する記述はなく、“済と武の
兄”は倭国内で死亡したと推測されます。
死亡原因はわかりませんが、当時、朝鮮半島の強国「高句麗」に戦いを挑むなど無謀としか思
えません。
おそらく、反対派の勢力に暗殺されたのでしょう。その時期は西暦460年前後ではないかと推
測します。
3.朝鮮半島の強国「高句麗」
(1)『北朝史』文献からみる「高句麗」と金石文からみる朝鮮半島諸国と倭国
高句麗の広開土王の後継者長寿王(在位413~491年)によって、高句麗は新羅や百済、更に百
済を援軍として助ける倭国軍と戦って、朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大し、高句麗
の最大版図を形成しました。
その歴史的経過は
①西暦424年 南朝宋の冊封を受ける。
②西暦427年、首都を首都国内城から平壌に移し、南進路線をはっきりとさせ、南方への勢
力拡大を続ける。
③西暦435年、背後の強国「北魏」に朝貢し、冊封を受ける。
『魏書』によると北魏の世祖太武帝から「都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将、遼東
郡開口公高句麗王の称号を拝受された。」とあります。
すなわち、後背の強国「北魏」と通交することによって、高句麗の支配地が担保された
ことになります。
④西暦450年 新羅が高句麗の辺将を殺害するという事件を契機に、高句麗は新羅領であっ
た忠清北道に進出し、新羅は高句麗の「臣民」となる。
⑤西暦455年以降 長期にわたり百済を攻撃。百済は北魏に救援を求めたが北魏は介入しな
かった。また百済の救援要請を受けた新羅・倭国は援軍を送ったが高句麗の勢いは止めら
れませんでした。
⑥西暦475年、百済の漢城(現ソウル市特別区)を陥落させ、蓋鹵王(こうろおう)を殺害
した戦勝により、百済は熊津(ゆんじん)に南遷。
⑦西暦492年 長寿王が死去し、後継者文咨明王(在位492~519年)即位。対外活動が最も
盛んになります。
(2)高句麗と新羅の関係を示す金石文「中原高句麗碑」
1978年に大韓民国忠清北道中原郷(現在の忠州市)中央塔面龍田里で発見された石碑。
(碑文の内容)
高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながらも、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷の
寐錦」と位置づけています。
注)寐錦(=法興王)在位(514~540年)
写真 「中原高句麗碑」 出典:Wikipedia(2022/04/12 13:30)
図 遼河(LIAO) 出典:Wikipedia(2022/04/12 13:30)
河北省・内蒙古自治区・吉林省・遼寧省を流れ、渤海に注ぐ。
歴史的地名として遼河以西を遼西、以東を遼東と呼びます。
図 忠州市周辺地図
図 「高氏系譜」故百嶋由一郎氏作成
4.5世紀半ば過ぎから台頭する新羅
新羅建国後の歴史的経過を検討してみましょう。
(1)西暦356年「新羅」建国 初代王奈勿尼師今(在位356~402年)
『三国史記-新羅本紀』では、新羅第十七代としていますが、私見は「辰韓や斯廬国」の歴
史を剽窃したと推測しています。
第十六代訖解尼師今の姓「昔氏(そくし)」から「金氏」に変わっています。
『三国史記-新羅本紀』が記す倭人の侵入記事
①奈勿尼師今九年(364)
夏四月、倭兵が大挙して侵入したが、不意打ちが功を奏して倭兵を撃退。
②奈勿尼師今三十八年(393)
夏五月、倭軍が侵入して金城を包囲。持久戦により倭軍は退却。
『韓国歴史地図-平凡社』によると、倭軍は北のポハンから侵入しています。
③実聖尼師今元年(402)
倭国と国交を結び、奈勿王子未斯欣(みしきん)を人質に送る。
④実聖尼師今四年(405)
夏四月 倭兵が侵入し、明活城を攻めたが、王が騎兵を率いて倭軍を破る。
⑤実聖尼師今六年(407)
春三月 倭人が東部を、また六月には南部を侵略した。
⑥実聖尼師今十四年(415)
八月、倭人と風嶋で戦い、勝利。
侵入記事はまだまだ続きますが、侵入地域は「釜山より北部の現在の慶尚南
道の東海岸部」と推定されます。
5世紀半ば過ぎからの倭人侵入記事の実体は、新羅による任那諸国への侵入記事と推測さ
れ、新羅は朝鮮半島中央部の慶尚北道・忠清北道に支配地を広げていきます。
(2)西暦377年 前秦への遣使が高句麗と共同で行われたことに見られるように、新羅の登場は高
句麗と密接に関わっています。
「広開土王碑」は新羅を高句麗の属民として記述しています。
その後、「高句麗や倭」につくなど「自立への道」は容易ではありませんでした。
(3)西暦454年 高句麗が新羅に侵入して戦闘となり、翌年には高句麗と百済との戦いで、百済へ
援軍を送る(「羅済同盟」)など新羅は高句麗に対する自立姿勢を明確にしていきます。
(4)5世紀末、新羅は慶州盆地の丘陵に「月城」と呼ばれる王城を築いた。
図 智證麻立干が建てた王都「月城」 出典ひもろぎ逍遥05/03/2012
場所は慶州国立博物館 太白山脈をこえた盆地
(5)5世紀末に即位した智證麻立干(在位500~514年)は、それまで不定であった国号を正式に
「新羅」とし、王号を旧来の「麻立干から王」へと変更したようです。
注)新羅の「原国号」
「徐那原(そなばる)」
(6)智證麻立干の後継者法興王(在位514~540年)は、西暦521年、百済との「羅済同盟」を背景に
伽耶方面への勢力拡張を図る。
(7)西暦523年 金官国を滅ぼす.金官国王金仇亥の一族を王都に移住させ、金仇亥の末子金武力
を重用する。新羅は服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り込み、対外伸張政策の特徴とし
ています。
(8)西暦528年 仏教を公認。
(9)法興王之後継者真興王(在位540~576年) 新羅は高句麗と争い、西暦551年
小白山脈を越えて高句麗の10郡を奪う。翌年には高句麗と百済の争いの中で、漁夫の利を得
る形で「漢城」を手中に収め、朝鮮半島の西海岸まで勢力を伸ばします。
(10)西暦562年 伽耶地方の大伽耶を滅ぼして占領し、洛東江下流域の任那諸国が新羅の支配下
に入ります。
次回は「倭の五王」を取り巻く朝鮮半島の情勢(2)です。