第六十三話   「景行天皇」(2)

写真 御所ヶ谷神籠石遺跡  出典:Wikipedia(2022/02/22 15:15)

私も見学に行きました。随分と大きな施設です。通説は7世紀後半の築造ですが、西暦662年

「白村江の戦い」で唐・新羅軍に敗れた倭国は、唐の占領軍に支配されました。

唐軍は、671年占領軍を引き払い本国に帰還後、翌年「壬申の乱」が勃発します。

このような政治状況下で、九州の各地で「神籠石山城」が築けましょうか。

○屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)

○景行天皇の九州遠征

1.屋主忍男武雄心命

『日本書紀』は、紀伊国に屋主忍男武雄心命を派遣しで神祇を斎祀ったところ、その後の統治

は滞りがなかったとしています。

屋主忍男武雄心命は孝元天皇の養子であることは紹介しました。

孝元天皇薨去後は、臣下に降り、「穂積の忍山(おしやま)」に名を改めました。

したがって、同記事は孝元天皇治下記事を換骨奪胎したものです。

2.景行天皇の九州遠征

景行天皇九州遠征を『日本書紀』に沿って検証してみましょう。

①周防の娑麼(さば)

周防の娑麼とは、現在の山口県佐波郡地域を指すと考えられます。

景行天皇九州平定の出発地点とする周芳の娑麼と九州王朝との接点が見えません。

故百嶋氏は、大足彦こと贈景行天皇の職務は特務機関長、現代の言葉に直せば諜報活動の長

で、周芳の娑麼には有力な反政府勢力や部族長の存在がうかがえません。

②豊國莵狭

九州王朝の同盟者神夏磯姫(かむなつそひめ)は支配地経営に背く莵狭(宇佐か?)の川上

に盤踞する鼻垂、御木の川上に盤踞する耳垂、高羽の川上に盤踞する麻剥(あさはぎ)、緑野

の川上に盤踞する土折猪折(つちをりゐをり)の四人を熊襲と呼び、景行天皇に報告しまし

た。

景行天皇軍は多臣(おおおみ)の祖武諸木等を派遣し、調略活動の末四人を誅殺しました。

伝承によると神夏磯姫は福岡県田川市周辺の開拓神として崇められています。田川市は古代

の豊国(遠賀川右岸は豊国、左岸は筑紫国)に属していました。

「神々の系図-平成12年考」によれば、「豊」を冠する初めての女王は高木大神の娘で豊玉

彦の妃となる豊秋津姫としています。したがって、神夏磯姫は豊玉彦と結婚する前の名である

可能性もうかがえます。

また夫の豊玉彦はその名が示すとおり豊国の支配者で、同記事は景行天皇の治世ではなく豊

玉彦による豊国平定譚と考えられます。

時代はAD152年頃で、大足彦こと贈景行天皇の活躍時期AD225年頃より約 70年以上タイムス

リップして挿入したと推測されます。

③京(現福岡県京都郡(みやこぐん)周辺)

豊前國長狭(ながお)縣(あがた)(現在の福岡県京都郡か?)に至り、行宮を立て「京(みや

こ)」と名付けたとしていますが、莵狭の兇賊耳垂・麻剥・土折猪折を征討する指揮拠点とし

て福岡県京都郡は離れすぎており、『紀』の記述は平仄が合いません。

豊前國長狭縣(ながおあがた)は、福岡県行橋市とみやこ町に跨がる御所ヶ岳を指している

と考えられます。

同地には、御所ヶ谷神籠石遺跡があり、Wikipediaによれば、標高246.9mの御所ヶ岳(ホト

ギ山)から西側に延びる尾根の約1㎞を底辺とし、北側の谷を頂点とする逆三角形状北斜面領

域に広がり、城壁の外周は自然地形の崖を含めて約3㎞の戦略的要害施設と考えられます。

九州王朝を脅かす敵対勢力からの防衛ラインが存在したことをうかがわせます。

写真 御所ヶ谷神籠石遺跡  出典:Wikipedia(2022/02/22 15:15)

図 福岡県京都郡周辺地図

香春岳の「採銅所」が近いですね。

京を定めたと記されているので平地に築いたと考えられます。京都郡苅田町与原にある御所山

古墳の被葬者は同遺跡の守備隊長と推測されます。

以上から、同記事は現在の福岡県京都(みやこ)郡の地名譚を紛れ込ませたと考えられます。

④豊國碩田(大分)

⑤豊國速見・直入

同国速見邑の女酋長速津姫は景行天皇を出迎えた際に、鼠の岩屋に青・白の土蜘蛛、直入縣の

禰疑野(ねぎの)に打猨(うちざる)・八田・國摩侶の五人の土蜘蛛が皇命に従わず、戦を仕掛

けてきたと報告があり、早速景行天皇軍により五人の土蜘蛛は滅ぼされ、その後は志我神(しが

かみ)・直入物部神(なおいりものべかみ)・直入中臣神(なおいりなかとみかみ)が祀られる

ようになりました。

速見邑は現在の大分県速見郡、直入縣は大分県直入郡です。直入郡は速見郡の西に隣接しま

す。

「神々の系図-平成12年考」によれば、速津姫は高木大神の長女で豊国王豊玉彦の妻豊秋津姫

としています。

同記事は豊玉彦・豊秋津姫夫妻による豊国平定譚のうちの豊後地域平定事業を換骨奪胎した記

事と考えられ、大足彦こと贈景行天皇の九州平定譚記事とは考えられません。

⑥直入・宇佐

宇佐へ帰還した事実は、宇佐地域に軍事拠点が存在したことを物語っています。

⑦日向國

熊襲を討つことを議る。襲國の厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さかや)両酋長は熊襲の八十梟

帥(やそたける)とも呼ばれていました。

熊襲梟帥(くまそたける)には二人の娘があり、姉を市乾鹿文(いちふかや)、妹は市鹿文

(いちかや)です。

大足彦こと贈景行天皇は姉の市乾鹿文を籠絡し、熊襲梟帥・市乾鹿文を誅殺し、襲國を平定し

ました。

その後、妹の市鹿文を火國造に任命しました。

襲の國の御刀媛(みとひめ)を娶り、日向國造の始祖となる豊國別皇子が生まれます。

『肥前叢書第一輯 編集代表者肥前史談会(株)青潮社発行P23 」に「景行天皇十二年天皇賊トアル

女市鹿文ヲ火ノ國造ニ賜フ」とあります。

疑問は「襲國」がなぜ、『肥前叢書』に記されているのでしょう。

⑧襲の國

同図では襲国を鹿児島県国分地方に比定していますが、前述したようにその根拠は不明です。

高屋宮に六年滞在中、御刀媛との間に豊國別皇子が生まれます。高屋宮の所在地は不明です。

その後、望郷の念から筑紫國の京へ帰還、同国内を巡狩。

⑨熊の郡

熊縣の熊津彦という兄弟が皇命に従わないので、兵を派遣して誅殺後、海路で葦北へ移動。熊

縣は現在の熊本県八代市周辺と考えられ、八代海を南下し、現在の熊本県芦北町に上陸しまし

た。

⑩葦北

葦北を出発点に八代海を北上し、八代縣の豊村、現在の熊本県不知火町周辺に上陸しました。

⑪島原半島高来

不知火町周辺から八代海を経て有明海に出て、長崎県高来(たかく)町に到着後は、海路で熊本

県玉名市周辺に転じました。故百嶋氏によれば八代市周辺は九州王朝の支配地、長崎県高来町周

辺は高木大神の支配地と述べています。

⑫阿蘇國

二人の神、阿蘇都彦・阿蘇都媛と出合います。「神々の系図-平成12年考」によれば、阿蘇都

彦は懿徳天皇の皇后天豊ツ媛を略奪した建盤龍命(母は神武天皇の皇后アイラツ姫、その後神沼

河耳命こと贈綏靖天皇に下賜されてからは蒲池媛に名を改める)としています。阿蘇都媛は略奪

された天豊ツ媛です。したがって、『紀』記事が記す場面は全くのねつ造記事と考えられます。

⑬筑紫後國

御木に到り、高田行宮に居住する。御木國地名譚・八女國地名譚が語られます。八女國では八

女津媛の存在を知り、その後的邑(いくは)に到り、同邑の古称は「浮羽」です。

御木は現福岡県大牟田市三池町周辺、八女縣は現福岡県八女市周辺、

的邑は現福岡県浮葉町周辺と考えられます。

以上から「景行天皇の九州遠征行路図」は、大率・姫氏およびスサノオ・高木大神・豊玉彦・

阿蘇「耳族」に関わる伝承を繋ぎ合せたと考えられます。

3.武内宿禰を北陸・東方への派遣

孝元天皇の項で北陸方面への派遣は武内宿禰ではなく実兄大彦命の事跡であることは詳述しま

した。

東方への派遣記事で注目されるのは「肥沃な日高見國を切り取るため、支配する部族蝦夷をす

ぐに討つべし」との実地調査報告書を天皇に提出したことです。

この「日高見國」とは、日本一の大河「利根川」流域に広がる関東平野と推測されます。

九州出身の武内宿禰にとって、筑後川流域に広がる九州最大の筑後 平野を遙かに凌駕する関

東平野は喉から手が出るほど支配地に組み込みたい、そのためには関東平野に広がる日高見國を

支配するため”蝦夷“を討つ必要があると報告したのでしょう。

ところが、既に関東地方には後に神として崇められる多くの政治集団が進出していたことは前

述しました。

したがって、「蝦夷を討つ」必要性もありません。関東地方には九州王朝と関わりのある神々

を祭祀する文化圏が確立しており、武内宿禰が東方へ派遣される必然性がありません。

当時の東国は「武蔵国」を中心に多くの国が分立していたことを示す東京都府中市の「大國魂

神社」を中心に検証してみましょう。

同社は「武蔵の守り神」で、起源は出雲臣天穂日命の後裔が初めて国造職に任命されたとあり

ます。

同社は六所社ともいわれ、「小野大神・小河大神・氷川大神・金佐奈(金鑽)大神・杉山大

神」の六神が祀られています。それぞれの神の序列は時代と共に変遷し、序列に拘泥する必要性

はないと考えます。

一 小野大神

多摩国一宮の「小野神社」多摩市一ノ宮

主祭神:天下春命(あめのしたばるのみこと)・瀬織津比売命・稲倉魂大神(うかのみた

まおおかみ)

天下春命は思兼神(=大幡主)の御子、すなわち豊玉彦、瀬織津比売命は、スサノオの

后であった櫛稲田媛です。スサノオの元を逃げ出した後、豊玉彦の妃となります。

瀬織津比売の名は「大祓詞」に見られるように、「祓えの祭祀」に用いられる名で、倉

稲魂大神は後に合祀したようで、「小野大神」は豊玉彦と考えられます。

  二 小河大神 

多摩国二宮の「二宮神社」東京都あきる野市二宮

主祭神:國常立神

「神々の系図-平成十二年考」に依れば、國常立神は豊玉彦の父大幡主です。

  三 氷川大神

「氷川神社」 さいたま市大宮区高鼻町

主祭神:須佐之男命・稲田姫命・大己貴命

一で述べたように、稲田姫命(=櫛稲田姫)はスサノオの元を逃げだし、東国の豊玉彦の

庇護下に収まっており、スサノオと稲田姫命を祭神とするには疑問があります。

大己貴命が「氷川大神」と考えられます。

  四 秩父大神 

「秩父神社(蔵王権現社とも呼ばれる)」 秩父市馬場町

主祭神:八意思兼神・秩父彦大神・天之御中主

天之御中主は鎌倉時代の「妙見信仰」を反映して後に合祀され、「八意思兼神」は豊玉彦

です。「蔵王権現」は御嶽教の主祭神「御嶽大神」の一柱國常立尊(くにとこだちのみこ

と)。すなわち大幡主ですが、秩父大神とは誰を指すのでしょう。「蔵王権現」の父白川伯王

は「白川大神」とも呼ばれています。八意思兼神は祖先神「白川伯王」を「秩父大神」として祭

祀したのでしょう。

  五 金奈佐大神(金鑽大神)

「金鑽神社」埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮

祭神:天照大神・素戔嗚尊

「風土記稿」では金山彦神としています。同社は名が示すとおり、明らかに「製鉄神」の

金山彦神が祭神と考えられます。

同じく製鉄神を祀る「筑波山神社」のご祭神は、筑波男ノ神=イザナギ、筑波女ノ神=イ

ザナミとしていますが、「神明帳考証」は陽峯埴山彦神(=金山彦)、陰峯埴山姫神としてい

ます。

  六 杉山大神 

Wikipediaによれば、関東地方に所在する杉山神社は、旧相模国内の横浜市内三十六社、横

浜市外四社、東京都内に七社です。祭神は明治以降「杉山大神」から「大物主命」に変更さ

れています。一で前述したように杉山大神は豊玉彦、杉山姫神は最初懿徳天皇の皇后天豊津

姫でしたが、建盤龍こと手研耳命に略奪された後は阿蘇津姫に名を改めたものの、周囲から

は天之屁理姫(あめのひりひめ)と嘲笑されていました。

この体裁の悪さから、父草部吉見こと天忍命は命は、豊玉彦の妃として迎え入れてくれるよ

う要請しました。豊玉彦は快く引き受け、阿蘇津姫は名を杉山姫に名を改めました。

以上の検証により、いずれもヤマトタケルよりも古い九州王朝を支える神々が東国に配さ

れ、彼らの家臣大己貴命・天忍穂耳命こと武甕槌命(たけみかづちのみこと)も派遣されて

いました。

加えてヤマトタケルは、関東における著名神社に祀られていない事実が存在します。した

がって、ヤマトタケルによる東国平定譚」は全くの虚構といわざるを得ません。

写真  武蔵国と大国魂神社 東京都府中市宮町  出典:同社HP

ご祭神:大国魂大神・小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金奈佐大神・杉

山大神

図  景行の九州遠征行路図

出典:岩波書店『日本書紀(上)日本古典文学体系』

 

次回は「景行天皇」(3)です。

 

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