第七十六話  「贈応神天皇」(2)

写真  「博多祇園山笠」  出典:博多祇園山笠公式サイト

祭に圧倒され、その熱気に預かろうと5日間追っかけました。

写真 博多祇園山笠「舁き山」 出典:Wikipedia (2022/02/25 13:00)

写真  博多権山笠「走る飾り山」 出典:Wikipedia (2022/02/25 13:00)

○呉橋と勅使門

○八幡大神とは

○故百嶋氏が指摘する正八幡(しょうはちまん)とは

○『日本書紀』記事の検証

 

1.呉橋(くれはし)と勅使門

写真をご覧ください。「呉橋」には屋根があります。「呉橋」の語源について、九州王朝大率

姫氏は呉の太白の末裔を自称していますので、君長(当時は天皇と呼んだのかは不明)大率姫氏

(だいそつきし)が渡る橋を「呉橋」と命名したと考えられます。

「勅使門」は大率姫氏の君長あるいは任命された勅使が渡る門です。

故百嶋氏は、天皇や勅使が渡る「呉橋」を応神天皇は渡ることができなかった正統な天皇では

ない別天皇と述べています。

写真 宇佐神宮「呉橋」   出典:宇佐市役所HP

明治44年撮影 屋根が懸かっているのが特徴です。

2.八幡大神とは

私見を述べると、単純すぎて申し訳ありませんが八幡大神は船の幡に関係する神、すなわちべるを統べる」と考えていました。

サラリーマンの晩年は、故内田康夫氏の“浅見光彦シリーズ”にはまり、熱心な読者の一人となりました。そこで、気づいたのは“主人公浅見光彦の事件に対する直感”を大切にすると、本来、八幡神とは、ヤハタの神と読み、八つの幡を掲げる神と認識すると、「八幡大神の初代は大幡主」に行き着きました。

贈応神天皇には「船や幡」に関する伝承は全くありません。

このいい加減な仮説は、四年前、古川清久氏と九州で出会い、故百嶋由一郎氏の「神社考古

学」に触れ、確信に変わりました。

(1)故百嶋氏のメモに、正八幡宮の主祭神を大幡主としています。

(2)ブログ“新ひぼろぎ逍遥”の主催者古川清久氏は、八幡神の大本こそ大幡主であり、最     初の八幡神であった。」としています。

3.故百嶋氏が指摘する正八幡(しょうはちまん)とは

「“正八幡”とは、応神以前の八幡で、一番古い正八幡と云えば、一般的には博多の櫛田神社の

神様です。

「博多の櫛田神社の神様に従っていたのは、金山彦・猿田彦・スサノオもそうです。」と述べています。

写真  博多の「櫛田神社」  出典:同社HP

ご祭神:大若子命(おおわかこのみこと=大幡主)・天照大神・素盞鳴尊

『和漢三才図会』によれば、櫛田神社の祭神は一坐で大若子命。後に天照大神と素盞鳴尊を併

せて祀ったとあります。

4.『日本書紀』記事の検証

『古事記』記事の検証は省略します。

(1)皇后・妃・御子

①皇后の姉高城入姫(たかきにゅうひめ)との御子、額田大中津彦(ぬかたおおなかつひ

こ)・大山守皇子(おおやまもりおうじ)・去来真稚皇子(いさまわかおうじ)・大原皇

女・嶗来田皇女(こむくたのおうじょ)の五柱。

皇后(神功皇后)の姉髙城入姫は『高良玉垂神秘書』からも明らかなように存在しません。

高城入姫は迦邇米雷王の妃です。

大山守皇子は仁徳天皇の項で詳述します。

去来真稚皇子(『古事記』では伊奢之眞若王と表記)は、その名「去来(いさざ)」が示すように、贈仲哀天皇の項で紹介した「筍飯大神(けひおおかみ)こと伊奢沙別神(いさざわけのみこと)と品陀和気命(ほむたわけのみこと)との名前の交換」と関係がありそうです。

大原皇女・嶗来田皇女の詳細は不明です。

(2)皇后仲姫(息長帯比売)との御子、荒田皇女・大鷦鷯(おおささぎ)天皇・根鳥皇子の三柱。

大鷦鷯天皇に関して、一書に

「上腕に瘤(こぶ)があり、その形は“鞆”の如し」とあります。

「太子の時、越國を訪れ、筍飯大神(けひおおかみ)を拝む。時に 大神と太子は名を

交換したという.(中略)大神の本の名を譽田別神、太子の元の名は去來紗別尊(いさざわ

けのみこと)と云う.しかれども、管見に見えず、つまびらかではない。」とあります。

故百嶋氏は筍飯大神=スサノオ 去來紗別尊=ツヌガアラシトとし、「大鷦鷯天皇(= 仁徳天皇)は開化天皇と神功皇后との皇子斯賀礼賀志命(しかれしのみこと)と述べています。

*鷦鷯(ミソサザイ)スズメ目ミソサザイ科の鳥。全長約10㎝

日本では九州北部の平野部に棲息。西欧では「鳥の王」と呼ばれています。

荒田皇女・根鳥皇子の詳細は不明です。

(3)皇后の妹弟姫(おとひめ)との御子、阿倍皇女(あべのおうじょ)・淡路御原皇女(あわじみはらおうじょ)・紀之莵野皇女(きのうのおうじょ)の三柱。

皇后の妹について、神社伝承では「虚空津比売命(そらつひめのみこと)、実は安曇磯良(あづみのいそら)の妃)」としています。弟姫の用例を『記紀』から検証すると固有名詞ではなく、次女以下の一般名詞として使用されており、特定することは出来ません。

阿倍皇女は開化天皇の若き頃の“阿倍相丞(あべのしょうじょう)”の阿倍氏、また孝元天皇の皇子大彦命の子孫も阿倍氏を継承しており、いずれも“大率姫氏”の流れを汲むと推測されます。

淡路御原皇女・紀之莵野皇女の詳細は不明です。

(4)和珥臣(わにおみ)の祖日觸使主(ひふれおみ)の娘宮主宅媛(みやずひめ)との御子、莵道稚郎子(うじのわかいらっこ)皇子・矢田皇女・雌鳥皇女の三柱。

和邇臣の祖日觸使主とは、越智族金氏の支流“日牟礼氏(ひむれし)”と推測されます。その根拠となるのが、古代の朝鮮半島中央部を支配した大伽耶国では集落”群れ・牟礼(むれ)“と表現していました。壱岐島では同じ集落をあらわす表現として”触(ふれ)“が現在でも使用されています。

したがって、“群れ・触れ”は同義語と考えられ、日觸使主も越智族金氏の支流“日牟礼氏”の末裔と推測できます。

莵道稚郎子皇子は、開化天皇の項で紹介しました。開化天皇とその乳母豊姫(ゆた)との皇

子です。

矢田皇女・雌鳥皇女の詳細は不明です。

(5)宮主宅媛の妹小ナベ媛、御子に莵道稚郎姫皇女(うじのわかいらつめおうじょ)の一柱。

莵道稚郎姫皇女はその名が示すように莵道稚郎子皇子の妃と推測されます。

(6)河派仲彦(かわまたなかひこ)の娘弟媛との御子、稚野毛二派皇子(わかのげふたまたおう

じ)の一柱。

詳細は不明です。

(7)櫻井田部連男鋤(さくらいたべのむらじおさひ)の妹糸媛との御子、隼總別皇子一柱。

隼總別皇子については、仁徳天皇で説明します。

(8)日向泉長媛(ひむかいずみながひめ)との御子、大葉枝皇子・小葉枝皇子の二柱。

ハエは「波延・葉江・葉枝・蠅とも表記」出雲神族の姓。和知都美命(わちつみのみこと)

こと宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)の御子ハエイロネ・ハエイロチ姉妹は孝霊天皇の

妃です。

したがって、大葉枝皇子・小葉枝皇子は日向の出身とは考えられません。

 

次回は「贈応神天皇」(3)です。

 

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