写真 扇谷遺跡から出土した「陶塤(とうけん)」 京都府暫定登録
出典:Wikipedia(2022/02/17 14:50)
オカリナに似た陶器製の楽器。稀にしか出土しない珍しい陶器。
中国の河姆渡遺跡(推定紀元前6000年から紀元前5000年頃)で出土。稲作と高床式建物
が特徴。後の楚・呉・越に繋がると考えられている。
①陶塤の前側
②河姆渡遺跡出土の陶塤
○藤原氏によって贈られた贈天皇
○贈垂仁天皇の皇后・妃と皇子・皇女
1.藤原氏によって贈られた贈天皇
贈崇神天皇同様、『記紀』ともに「帝紀・旧辞」記事が豊富です。故百嶋氏は「藤原氏によっ
て贈られた天皇で、正統な天皇ではない」と述べています。
「神々の系図-平成12年考」から同天皇の系譜をたどると、父系は天忍穂耳命こと贈孝昭天
皇、母系は高木大神の王女拷幡千々姫が始祖となります。すなわち、高木大神と阿蘇族の混血の
血筋を持ちます。
表 活目入彦の家系図
活目入彦
贈垂仁天皇
AD198年 |
父 日中咋
AD178年 高木大神四世の孫
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祖父 天忍日命またの名
興ツ彦 AD158年 天忍穂耳命の孫
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曾祖父 天忍穂耳命
AD138年 曾祖母 𣑥幡千千姫 高木大神の娘 AD153年
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祖母 雨宮姫
建盤龍命またの名手研耳命の娘 AD167年
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曾祖父 建盤龍命またの名手研耳命
AD167年 曾祖母 天豊津姫またの名阿蘇津姫雨宮姫 AD153年 |
||
母 不明 |
不明 | 不明 | |
不明 | 不明 |
注)生年は故百嶋氏の推定
2.贈垂仁天皇の皇后・妃と皇子・皇女
(1)『古事記』
①沙本比古命(さほひこのみこと)の妹、佐波遅比売命(さはぢひめのみこと)を娶り、品牟都
和気命の一柱。
沙本比古命・沙本毗売命兄妹は日子坐王(ひこますおう)と沙本大闇戸売(さほおおくらとめ)
との御子で、共に旧肥前国佐嘉郡で養育されたことは前述しました。
品牟都和気命について後述します。
②旦波の比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしおう)の娘氷羽州比売命(ひばすひめの
みこと)を娶り、印色入日子命(いにしきにゅうひこのみこと)・大帯日子淤斯呂和気命(おお
たらしひこおしろわけのみこと)・大中津日子命(おおなかつひこのみこと)・倭比売命(やま
とひめのみこと)・若木入日子命(わかきにゅうひこのみこと)の五柱。
旦波の比古多多須美知能宇斯王とは丹波道主王ことヤマトタケと考えられます。「神々の系図
-平成12年考」では、大帯日子淤斯呂和気命=大足彦の父は、御年神こと贈孝安天皇、母は丹波
道主王ことヤマトタケルの娘氷羽州比売命です。
印色入日子命は、『紀』では五十瓊敷入彦命と記し、鳥取河上宮で横刀一千口を作り、石上神
宮に収めたとあります。
印色日子命が居住したとされる「鳥取河上宮」は現阪南市鳥取町周辺とされていますが、周囲
には製鉄遺跡が存在しません。
石上神宮は物部氏の総氏神として物部氏が祭祀しているので、印色入日子命と物部氏との関係
が囁かれていますが、具体的根拠は不明です。
藤原宮跡出土木簡に「旦波国竹野評鳥取里」、平城京跡出土木簡に「丹後国竹野郡鳥取郷(現
京丹後市弥栄町周辺)」とあり、「鳥取」の地名が古代から存在していたことが確認でき、さら
に「河上宮」とは、丹後半島最大の河川「竹野川」の上流域と推測でき、京丹後市弥栄町の南に
隣接する嶺山町丹波周辺は、古墳や遺跡が密集することで知られ、また峰山町扇谷は弥生時代前
期末から中期初頭とみられる扇谷遺跡があり、「扇谷遺跡発掘調査報告書1984峰山町教育委員
会」によると、集落を巡る集濠内から弥生土器と共に「鉄斧・鉄滓状の塊」などが検出されまし
た。これらの鉄製遺物の化学分析を担当した日立金属㈱や金研究所の清水欣吾氏の報告によれ
ば、鉄斧は砂鉄系原料から製造された鋳造品と推定し、鉄滓も砂鉄系原料による鍛冶滓と推定す
ると結論されています。但馬・丹後両国の国境から丹後半島にかけての山地は、出雲国に劣らぬ
砂鉄の豊富な地方であることなどから、横刀壱千口を作った場所は京丹後市の扇谷地区と考えら
れ、「鳥取河上宮』は京丹後市弥栄町鳥取である可能性がうかがえます。
写真 扇谷遺跡の環濠 出典:京丹後市HP
写真 扇谷遺跡から出土した「陶塤(とうけん)」京都府暫定登録
出典:Wikipedia(2022/02/17 14:50)
オカリナに似た陶器製の楽器。稀にしか出土しない珍しい陶器。
中国の河姆渡遺跡(推定紀元前6000年から紀元前5000年頃)で 出土。稲作と高床式建物
が特徴で、後の楚・呉・越に繋がると考えられています。
①陶塤の前側
②河姆渡遺跡出土の「陶塤」
大中津日子命を祀る神社
諸岡比古神社:石川県羽咋郡志賀町
主祭神:大中津日子命
写真 諸岡比古神社
田中天神社:犬山市天神町
祭神:大中津日子命・少彦名命・菅原道真公
気比神社:石川県七尾市東浜町
祭神:帯中津日子命・誉田別命・去来紗別神・天神神
祭祀されている場所から、東海・北陸地区で活動したようです。
なお、『紀』は大中姫命としています。
倭比売命は、父が椎根津彦、母はウサツヒメとの間に生まれ、またの名が黒砂(いさご)で
す。
若木入日子命については不明です。
③氷羽州比売命の妹沼羽田入毗売命(ぬまばたにゅうひめのみこと)を娶り、生まれたのが沼帯別
命(ぬまたらしわけのみこと)・伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと)の二柱。
いずれも名に「帯(たらし)」を持つ特徴から、母系がスサノオの王女の可能性が濃厚です。
④沼羽田入毗売の妹、阿耶美の入毗売命(あざみのにゅうひめのみこと)を娶り、生まれたのが伊
許婆夜和気命・阿耶美比売命の二柱。
二人ともに管見に見えません
⑤大筒木垂根王の娘迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)を娶り、生まれたのが袁那弁王(おなべ
おう)の一柱。
大筒木垂根王は、その名が示すように「山代の筒木」が行動領域と考えられますが、管見には
見えません。
迦具夜比売命は「神々の系図-平成12年考」によれば、コノハナサクヤ姫の別名です。
袁那弁王も管見に見えません。
⑥山代の大国淵の娘刈羽田刀弁(かりはたとべ)を娶り、落別王(おちわけおう)・五十日帯日子
王(いかたらしひこおう)・伊登志別王の(いずしわけおう)三柱。
刈羽田刀弁は『記-開化天皇記』が記す日子坐王の妃”山代の荏名津比売(えなつひめ)、また
の名刈幡刀弁”と同一人物です。
落別王を祀る神社は、琵琶湖東南部に集中していることから同地域で活動したと考えられま
す。
小槻大社 栗東市下戸山 祭神:於知別命(落別命)・大己貴命
小槻神社 草津市青地町 祭神:於知別命・天児屋根命(天忍穂耳命)
五十日帯日子王を祀る神社
伊加奈志(いかなし)神社 今治市五十嵐字上ノ山
祭神:五柱命・五十日足彦命・伊香我色許男命
五十君(いそぎみ)神社 新潟県上越市三和区所山田字鳥居場
祭神:五十日足日子命 配祀神:劔大明神(日本武尊)・飯縄大明神(倉稻魂命)
滓上(かすかみ)神社 石川県小松市中海町
主祭神:五十日帯彦命 配祀神:誉田別命・息長帯姫・菊理媛命
五十嵐神社(旧名伊加良志神社) 新潟県三条市大字飯田 祭神:五十日帯彦命
五十君神社と五十嵐神社には同地で亡くなった伝承が伝わっていることから、「越ノ國」が
主たる活動領域であったと考えられます。
伊登志別王またの名に鐸石別命(ぬでいしわけのみこと)を祀る神社
御祖神社(足立妙見宮) 北九州市小倉北区妙見町
祭神:天之御中主・高皇産霊神・神皇産霊神
同社由緒では「和気清麻呂公の足が治った翌年、宝亀元年に四男の磐梨妙運が祈願を込め、弘仁
八年に真綱が先祖である鐸石別命と公を合わせ祀った。」とある。筑紫では伊登志別王を蹈鞴の
元祖として祀っています。
鐸比古(ぬでひこ)・鐸比売(ぬでひめ)神社 大阪府柏原市大県 祭神:鐸比古命・鐸比売命
伊登志別王またの名鐸石別命は、砂鉄(磁鉄鉱)を鉄に還元する技術者で、伊迹(いと)師・石
十(いそ)氏と呼ばれ、後に石上(いそのかみ)と呼ばれるようになりました。
⑦刈羽田刀弁の妹を娶り、石衝別王(いしづきわけおう)・石衝毗売命(いしづきひめのみこと)
またの名を布多遅伊理毗売命(ふたじいりひめのみこと)の二柱。
刈羽田刀弁の妹も日子坐王の妃であったと考えられます。
石衝別王を祀る神社
羽咋神社 羽咋市川原町 祭神:石撞別命 相殿:石城別命・弟刈幡刀辨・道返大神
水尾(みお)神社 高島市 祭神:磐衝別命・比咩神 一説に猿田彦命と天細女命
布久比神社 豊岡市栃江字一宮 祭神:岩衝別命
『記』の記述と違い「別王」ではなく、「別命」と記されています。行動領域は日本海沿岸で、
羽咋神社の境内後方にある前方後円墳が陵墓との伝承があり、能登国で没したと考えられます。
⑧垂仁天皇の皇后・妃ならびに御子達のまとめ
「神々の系図-平成12年考」によると生目入日子(いくめにゅうひ垂仁天皇は垂仁天皇は、「許
氏」高木大神系と阿蘇耳族「多氏」系の血筋を引く日中咋(ひなかくい)を父として生まれ、母
の名は不明です。御子は妃宇佐津姫との間に生まれた水沼別祖国乳別(みぬまわけのそくにちち
わけ)のみとしています。
『記紀』では景行天皇の御子としています。
『古事記』が記す皇后・妃の存在は疑わしく、加えて御子達のほとんどが実子とは考えられず、
また同天皇に関わる伝承が九州内や大和でも乏しく、全体として実在性が希薄なのです。
故百嶋氏によると、生目入彦こと贈垂仁天皇は、大伽耶国王として派遣されたと述べていま
す。おそらく、高木大神系統の許氏の血筋を繋ぐため、生目入彦が大伽耶国に派遣されたと推測
します。
(感想)うんざりするほどの御子の多さです。それも実子は一人もいません。失われた九州王朝の史書に豪族の系譜が記載されていたようです。
次回は「垂仁天皇」(2)です。