第百五十話  「持統天皇」(2)

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写真 天武・持統天皇陵(檜前大内陵) 出典;NARABURA奈良の観光情報まとめサイト

○持統天皇は何故草壁皇子に譲位しなかったのでしょうか。

○『日本書紀』最大の編纂目的

○持統天皇が夢見た世界のその後

 

1.持統天皇は何故草壁皇子に譲位しなかったのでしょうか。

(1)持統天皇は冤罪の大津皇子を何故救えなかったのでしょうか。

大津皇子謀反事件は天武天皇の薨去後間もなく、川島皇子の密告により発覚し、大津皇子は哀れに

も自死の道を選びます。

前回でも取り上げましたが、日本書紀は天武十五年薨去としていますが、私見は天武十四年(685年)

説です。

理由は「朱鳥元年(686年)」は高市皇子が天皇に即位し、元号を改元した年と推測しています。

日本書紀は、鸕野讃良皇太后が天武天皇薨去後、政権を担っていたと記述しています。

実の姉大田皇女の忘れ形見、闊達な話ぶりや詩賦の才能に優れた大津皇子を鸕野讃良皇太后は愛し

ていたと推測します。

ところが天武天皇薨去後、政権を担ったのが高市天皇ですから、下手にかばい立ては出来なかった

と推測します。

(2)鸕野讃良皇太后の忍耐時期

日本書紀によると、持統天皇の在位(称制時期を含む)は687~696年に亘っています。

草壁皇子の生年は天智元年(662年)で、西暦687年の時点では25歳の青年に成長しており、草壁皇子

に譲位出来たはずです。

譲位出来なかった理由は、鸕野讃良皇太后は天皇に即位していなかったとしか考えられません。

そのため、鸕野讃良皇太后は朱鳥元年(686年)~朱鳥九年(694年)まで、表面は故天武天皇の菩提を弔

うため、熱心に吉野宮に通いますが、心の裡は忍耐の日々でした。

(3)失意の鸕野讃良皇太后

朱鳥四年(689年)、希望の星草壁皇子は病で薨去し、鸕野讃良皇太后は失意のどん底に陥りますが、

草壁皇子の忘れ形見軽皇子(かるのみこ)の成長に希望を見出していたと推測します。

(4)高市天皇の薨去

日本書紀は高市皇子の薨去を持統十年(696年)としていますが、私見は朱鳥九年(694年)です。

第百四十七話で紹介しましたが、『懐風藻』の「葛野王段」には、

「高市皇子薨後、皇太后引王公卿士於禁中継嗣。時群臣各挟私好。衆議紛糾。」

拙訳は「高市皇子薨去後、皇太后(=御名部皇女)は諸王・諸臣を禁中に召して、継嗣を立てること

を協議します。時に群臣は各々好きかってな私見を挟み、衆議は紛糾しました。」

この漢文のおかしな点は「高市皇子薨去後になぜ諸王・諸臣を集めて継嗣問題を協議する必要性」

があるとは考えられません。

本来ならば、相続人とその一族が協議すれば事足りると考えられます。

この疑問の鍵は「継嗣」を「皇嗣(皇位)」に置き換えると疑問は氷解します。

すなわち、皇位(天皇位)継承問題にあります。

通例ならば、皇位継承順位第一の者が受け継ぐことになりますが、その該当者を巡って協議が紛糾

したと推測します。

本来は「高市皇子薨去後ではなく高市天皇薨去後」と考えられます。

私見の「高市天皇説」では、皇位継承順位第一の者とは「長屋王」と推測しますが、長屋王は当時

数え年10歳の子供です。

とても皇位を継ぐことは出来ません。

そのため、「天智・天武・高市系」に分かれて協議は紛糾したのです。

此処で活躍したのが大友皇子の嫡男「葛野王(かどのおう)」と推測します。

天武天皇と共に「日本国」を確立した政治経験豊富な「鸕野讃良皇女」を推す流れになったと推測

します。

天智・天武系を代表する「鸕野讃良皇女」は、高市天皇の皇后であった御名部皇太后の実の姉であ

り、衆議は一挙に鸕野讃良皇女を天皇として即位することに決したようです。

結果として、「天智系」の血筋が大切にされました。

(5)鸕野讃良皇女の宿願成就

西暦697年八月日、当時52歳を迎えた持統天皇は軽皇子が15歳になった時に皇位を譲り、目出度く

宿願は成就します。

 

2.『日本書紀』編纂の最大目的

舎人親王を中心にして編纂された『日本紀三十巻と系図一巻』は、後に秘匿され、『日本書紀三十

巻』として加筆修正されたと推測します。

では、目的は何だったのでしょうか。

歴史上、「高市天皇を抹殺」することにあったと推測します。

また、高市天皇を記す『日本紀』に添えられた「系図一巻」が秘匿されました。

皆さんは『釋日本紀』をご存知ですか。

卜部兼方が鎌倉時代末期に顕わした『日本書紀』の注釈書ですが、全二十八巻で構成され、

「天智天皇」で終わっています。

天武・持統天皇は記述されていないのです。

卜部氏は「壬申の乱は皇統の変更」と断じています。

 

3.持統天皇が夢見た世界のその後

表 皇極天皇~平城天皇の和風諡号

表を見ていただければ、紆余曲折もありますが、持統天皇の夢見た世界は現代まで続いていま

す。

 

天皇名 和風諡号
皇極天皇 財重日足姫天皇 〔倭国分家豊国系〕
孝徳天皇 天萬日天皇    〔倭国分家豊国系〕
斉明天皇 財重日足姫天皇 〔倭国分家豊国系〕
天智天皇 天命開別天皇    〔倭国分家豊国系の分家〕
天武天皇 天渟中原瀛眞人天皇 〔天武系〕
高市天皇 不明        〔天武系〕
持統天皇 倭根子天之廣野日女尊  〔天智系〕
文武天皇 倭根子豊祖父天皇     〔天智系〕
元明天皇 日本根子天津御代国成姫 〔天智系〕
元正天皇 日本根子高瑞浄足姫    〔天智系〕
聖武天皇 天璽国押桜彦天皇    〔天智系〕
孝謙天皇(異称高野天皇・倭根子天皇) 宝宇称徳孝謙皇帝     〔天武系〕
廃帝 淳仁天皇 不明 舎人親王の七男   〔天武系〕
称徳天皇 宝宇称徳孝謙皇帝     〔天武系〕
光仁天皇 天宗高紹天皇 62歳で即位 〔天智系〕

天武天皇の第七皇子志貴皇子の第六皇子

桓武天皇 日本根子皇統弥照尊    〔天智系〕
平城天皇 日本根子推国高彦尊    〔天智系〕

 

写真 天武・持統天皇陵(檜前大内陵) 出典;NARABURA奈良の観光情報まとめサイト

写真 薬師如来像台座四神獣  出典:70からの水彩散歩

本シリーズは今回で終結します。仮説と云うよりも推測に終始した古代史観にお付き合いいただき

ありがとうございます。

次回は「謎の女神シリーズ」姫」を予定し、鋭意調査を続けています。

皆様のご健康とご多幸を祈念します。

敬具

 

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