第百三十三話  「皇極天皇」(2)

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写真 オオルリシジミ

全国でも希少な蝶 生息地:長野・大分・熊本県

私が見た最も美しい蝶 大分県で見ましたよ。

出典:理科教材データベース昆虫図鑑

写真 「クロアゲハ」 出典:理科教材データベース昆虫図鑑

○山背大兄王子襲撃事件

○中臣鎌子連とは

○中臣鎌子連を支える背景とは

 

1.山背大兄王子襲撃事件

今回は「血なまぐさい事件」が続くので、「癒やしの写真」を紹介しました。

山背大兄王子襲撃事件の真相について、Wikipediaは「独特の政治力と経済力に脅威を覚えた蘇我入鹿の襲撃」と見ているようです。

独特の政治力が何を指すのか不明で、『日本書紀』からも窺えません。

第百三十話で紹介しましたが、「丁未の変(いわゆる物部戦争587年)」に勝利した蘇我馬子は、厩戸豊聡耳皇子に論功行賞として莫大な富を与えました。

その理由は自分と共に「仏法興隆」のために尽力することを願っていたのかもしれません。

(論功行賞の内容)

・守屋子孫従類二百七十三人 (斑鳩)寺の永奴婢となる。

・没官所領田園十八万六千八百九十(しろ)

・河内国 弓削、鞍作、祖父間(中略)、総て集めれば千二万八千六百四十

・摂津国 於勢、模江、鵄田、熊凝等散地総て集めれば五万八千二百五十

蘇我蝦夷も父蘇我馬子と同様に厩戸豊聡耳皇子の後継者山背大兄王子に期待を抱き、また蘇我入鹿も同様でした。

ところが、山背大兄王子は期待とは程遠い人物であったようです。

『日本書紀』は、山背大兄王子を支援する与党勢力に関して全く記述していません。

蘇我入鹿は巨勢徳太臣・土師娑婆連に命じて、斑鳩の山背大兄王子邸を襲撃しますが、山背大兄王子側の反撃体制は「奴三成と数十人の舎人」でした。

「丁未の変」で厩戸豊聡耳皇子に与えられた論功行賞のうち、「守屋子孫従類二百七十三人寺の永奴婢」が、忽然と消えているのです。

寺の永代奴婢となった時点で、守屋子孫類従は武装解除されていましたが、武器を持たせれば、彼らは相当な戦闘部隊を組織できたはずですが、忽然と消えてしまった理由は何処にあったのでしょうか。

理由は不明ですが、山背大兄王子に問題があったと推測します。

蘇我入鹿にも問題があります。与党勢力も窺えない山背大兄王子を説得する手段もあったはずですが、それも行いませんでした。

『日本書紀』は「蘇我入鹿臣」と記述していますが、間違いなく「蘇我蝦夷大臣の後継者として大臣に就任していた」と考えられます。

蘇我入鹿大臣は、大臣としての立場をわきまえず、拙速な手段の「襲撃策」を選択したのは大きな誤りと考えられます。

では、なぜ蘇我入鹿大臣は拙速な手段「襲撃策」を選択したのでしょうか。

同じく「仏教信奉者」という背景が通じない、すなわち意思疎通が敵わない事情が存在したのではないでしょうか。

其の事情について『日本書紀』編纂者は口を閉ざしています。

蘇我入鹿大臣は早期に芽を摘むため。山背大兄王子を襲撃したのが本来の目的かもしれません。

襲撃軍も甘く見ていたようで、寡兵の反撃に手を焼き、あろうことか、将の一人土師娑婆連は射殺されました。

このような体たらくですから、山背大兄王子は易々と斑鳩宮を抜け出し、生駒山中に逃げ込みます。

その後、生駒山中で山背大兄王子は発見されますが、蘇我入鹿は追討軍の将として、高向國押に命じますが、あえなく断られてしまいます。

しかたなく、蘇我入鹿は自ら追討軍の将として赴こうとしますが、古人皇子に諫められ、思いとどまります。

そうこうしているうちに山背大兄王子は斑鳩寺に帰還します。

三輪文屋君等を軍将として斑鳩寺を取り囲みます。

山背大兄王子は遂に諦め、子弟・妃妾らと共に自死します。

この顛末を知った蘇我蝦夷大臣は大いに嘆きます。

以上が、『日本書紀』の記すところです。

皆さんは、この物語を読んで、蘇我入鹿の無能さに呆れるでしょう。

それが『日本書紀』編纂者の目的です。

私見は、『日本書紀』編纂者の脚本が精緻であればあるほど多くの疑問が付きまとうのです。

 

2.中臣鎌子連とは

「連(むらじ)」とは、Wikipediaによると「姓(かばね)」のひとつで「臣(おみ)」とともに高位の豪族が保持していた称号。語源には諸説ありますが、一定規模の社会集団で意味する「ムラ」の族長「ヌシ」とする説が有力とあります。

私見は、古代社会の祭祀は基本的に族長が「祭主(さいしゅ)」となり、一族の祖を祀ります。

族長の中でもとりわけ高い地位の「祭主」が「ヌシ」を名乗ったと推測しています。

代表例を挙げると「大幡主(オオハタヌシ)」が該当します。

「大国主」と「経津主」は、大幡主の孫娘豊玉姫の入り婿という血縁関係から「ヌシ」の称号が与えられ、「事代主」は豊玉姫の連れ子で、厳密な意味では「偽証のヌシ」で、本来の名は「少那日子那(すくなひこな)」と推測します。

故百嶋氏によると「中臣氏は阿蘇氏の庶流であるため、本来の祖である天児屋根命(アメノコヤネノミコト=海幸彦)に加え山幸彦(後の経津主命)を祀るなど一貫していない。」と述べています。

おそらく、古代の英雄の名を並べて一族の祖としているのでしょう。

三年春正月(644年)、中臣鎌子連は神祇伯に任命されます。

同記事は全くの潤色で神祇伯とは、「律令制で神祇官の長官を指し、定員一名、従四位下、代々白川家が世襲」とあり、明治時代初めまで続きます。

したがって、同記事は歴史的事実ではありません。

Wikipediaによると「中臣氏」は、忌部氏(豊玉彦の子孫)古代の日本において神事・祭祀を司った中央豪族で現在の京都市山科区中臣町付近を拠点としていた。」とあります。

おそらく、中臣氏は神祇官の職員だったのではないでしょうか。

 

3.中臣鎌子連を支える背景とは

(1)正妻鏡王女

中臣鎌子連を支える背景として、『日本書紀-皇極紀』は「ハク漬け」として、正妻を「鏡王女」としています。

鏡王女については、其の素性は謎に包まれています。

一般的に身分差から、「王女が中臣鎌子」に嫁ぐことはあり得ないと考えます。

私見は、「橘氏」と縁のある女性が中臣鎌子の妻だと推測します。「橘氏」は豊玉彦を祖とする後継豪族です。彼らは「仏法を信奉し、神道を尊ぶ一族」でもありました。

『日本書紀』が記す用明天皇のプロフイールと一致します。

(2)白川伯王家

後に中臣氏一族は神事・祭祀を司る職で大躍進を遂げます。「倭国の神祇伯白川伯王家」の存在があったと推測します。

橘氏の先祖を辿れば「白川伯王家」の裔で、夫中臣鎌子連を推薦できる立場にあり、目出度く神祇職員として採用されたと推測します。

皆さんは、毎年六月と十二月晦日に行われる「大祓」という神事をご存知ですか。私も神職とともに、其の祭行に一役買っています。

「大祓の祝詞」には決まりがあります。それは「祓え給う」から「祓え申す」です。

「中臣祓(中臣祭文ともいいます)は『延喜式』巻八「六月晦日大祓(大祓詞)」を元に作られたものと考えられており、12世紀初頭に成立した「朝野群載」巻六として収録された現存最古の本文とされています。

(3)仏教擁護派勢力

「中臣祓」は仏教とも深い関わりがあります。

その証左が、東大寺二月堂修二会(しゅうじえ)で行われる「お水取り」で「大中臣祓・中臣祓」が行われます。

写真 東大寺二月堂修二会  出典:華厳宗大本山東大寺HP

中臣氏が崇敬する春日神社 奈良市春日野町

主祭神:武甕槌命(=大幡主)・天児屋根命・経津主命

写真  春日大社本殿 出典:Travel Book

(4)軽皇子との出会い

『日本書紀』によると、切っ掛けは軽皇子の妃阿倍小足姫が中臣鎌子連の資質を高く買い、夫軽皇子に推薦したとあります。

(5)中大兄皇子との出会い

『日本書紀』によると、「王族の中で、巧名をたてるのは中大兄皇子以外にない。」と常々思っていたところ、偶然にも法興寺の槻の樹の下で、蹴鞠に打ち興じていた中大兄皇子とまみえ、一目でお互いに以心伝の境地に至った。」とあります。

(4)・(5)の記事は、「辻褄合わせ」の脚色です。

何故、中臣鎌子連が出世の糸口をつかんだ本当の理由はよくわかりません。

 

 

次回は「皇極天皇」(3)です。

 

 

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