写真 「豊浦寺址」
○上宮法皇とは蘇我馬子宿禰大臣か
○豊浦宮から小墾田宮への遷都
○蘇我馬子の本来の表記
1.上宮法皇とは蘇我馬子宿禰大臣か
「上宮法皇」とは一般的に「上宮と呼ばれた宮」に本拠を持ち、「法(仏法)の皇(すめらぎ、大
王)」と解釈できるので、「仏法によって君臨する大王」とするのが通説のようです。
この上宮法皇を推古天皇の皇太子兼摂政の厩戸皇子とするのが有力説ですが、問題点は三点あります。
(1)厩戸皇子が「上宮」と呼ばれた宮を本拠としていたか。
『日本書紀』推古元年四月条に
「父天皇愛之。令レ居二宮南上殿一。故稱二其名一、謂二上宮厩戸豊聡耳太子一」とあり、独立するまでは父用明天皇の池邊宮南の上宮で養育されたが故に「上宮厩戸豊聡耳太子」と呼ばれていたに過ぎず、独立後は斑鳩宮を本拠としていました。
この斑鳩宮が上宮と呼ばれていたとする記述は『日本書紀』になく、「上宮法皇=厩戸皇子」説は、太子信仰から派生したと考えられます。
(2)「法皇」の呼称
天皇でもなかった厩戸皇子が「法皇」と呼称されるはずもなく、「太子信仰」定着後、厩戸皇子が「聖徳太子」に格上げされたとみるのが妥当のようです。
(3)厩戸皇子の薨年
『日本書紀』では「推古二十九年(621)春二月」で、釈迦像銘文は「法皇登迦癸未年(622)三月中」とあり、両者を同一人物とするには疑問があります。
この三つの問題点に鋭く切り込んだのが故古田武彦氏で、「上宮法皇」を『隋書』俀国伝が記す九州王朝の大王「多利思北弧」と指摘し、その根拠は多利思北弧が隋に送った国書の中で仏教を崇拝し、中国の天子を「海西の菩薩天子」だと誉めてはいるものの、自らも「日の出ずる所の菩薩天子」だと、暗に主張し、また「法皇」とは明らかに仏教の僧籍に入った天子を指すと指摘しています。
しかし、故古田武彦氏は「上宮」について場所を曖昧にしたままです。
また、九州王朝の累代の大王が敬仰していた寺がどこにあったのかについても言及していません。
さらに多利思北弧が「上宮法皇」と呼ばれていたとする文献や住まわれた宮殿が「上宮」と呼ばれていたとする文献も同様に管見に見えないのです。
したがって、故古田武彦説は文献・遺跡考古学の両面からも論証が十分に尽くされていないのが現状ではないでしょうか。
竹嶌正雄氏は、「東海の古代」第164号所収の“「法興」年号に関する考察”で『日本書紀』皇極三年(626)冬十一月条に「蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、雙二日上宮門一。日二谷宮門一。」とあり、蘇我入鹿が住む家を「上宮門」と呼ばれていた記事を取り上げ、蘇我氏一族は蘇我王家を意識し、馬子大臣は自らを法皇と呼び、年代には「法興」と号していたとし、『日本書紀』推古三十四年(626)五月二十日条の「大臣薨仍葬桃原墓」の記事のうち「仍」は「かさねて:元の物事につけ加えるさま」と解し、蘇我馬子大臣の死亡記事ではなく改葬記事であると指摘しています。
この指摘は、釈迦像光背銘文にある「法皇登迦癸未年(622)三月中」との4年のずれを補い、かつ馬子大臣の薨去年を光背銘文が記す「法皇三十二年二月二十二日」を妥当とするものです。
注)「日本書紀-推古天皇三十四年条(626年)」には「馬子没す」の記事。
同氏の指摘に対し、石田敬一氏は「東海の古代」第176号所収の「古代逸年号に関わる疑念その5」で、推古紀は元年から三十六年まで連続して記述しているが、推古三十年のみ、その年次と記事がない面妖さを指摘し、書紀記事から、蘇我馬子大臣の薨去年を推古三十年(622)、すなわち法興三十二年と推測しました。
蘇我馬子大臣の薨去年は別として、両氏は「蘇我馬子大臣=上宮法皇」説で一致しています。
私見も同様です。
[釈迦三尊像光背銘文]
法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力貂病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇子迦癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像幷挟持及荘厳
具竟乗斯微福信道知識現在安穏
出生入死随奉三主紹隆三寶遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩堤使司馬鞍首止利佛師造
2.小墾田宮とは
第百二十四話で「炊屋姫皇后は泊瀬部天皇の皇后ではなく、蘇我馬子宿禰大臣の妻であった。」とする仮説を提起しました。
蘇我馬子宿禰大臣の邸宅の後(うしろ)に「炊屋姫命の宮」が建てられ、これを「後宮(こうきゅう)または豊浦宮」と呼んでいたと考えられます。
蘇我馬子宿禰大臣は私宅に設けた仏教崇拝施設を「向原(むくはら)」に移転させ、そこに「豊浦寺(向原寺)」を建設したので、その迹地に「豊浦宮」を建設したと推測します。
推古十一年に豊浦宮から小墾田宮へ遷都した理由は不明ですが、もしかすると夫婦喧嘩が原因かもしれません。
小墾田宮の推定地は錯綜を極めていましたが、「島庄遺跡」が有力な推定地と考えられます。
(1)高市郡明日香村「古庄」地区
「古庄遺跡」とも呼ばれ、1970・1973年と二度に亘る発掘調査では、宮殿跡が見つからず、七世紀初頭の掘立柱建物・庭園・大溝が検出されました。
(2)雷丘東方遺跡
1986年雷(いかずち)丘南麓で、六世紀末から七世紀初めと推定される苑池と石敷の一部が検出されました。
1987年「小墾田宮」と記す墨書土器破片が多数検出されました。
「宮」は雷丘(標高110㍍)の尾根筋に建てられるはずで、麓には建てません。何故ならば、「国見の岡」としての機能がないからです。
因みに蘇我馬子宿禰大寺院の邸宅は「甘樫の丘(標高148㍍)」に建てられ、別名「国見の丘」と呼ばれていました。
したがって、雷丘東方遺跡から検出された墨書土器破片は、雷丘麓の「ゴミ捨て場」と理解するのが素直ではないでしょうか。
(3)島庄遺跡
2006年の発掘調査で、飛鳥時代の掘立柱建物群を検出し、四つの群に分けられ、A群とC群については柱穴が一辺1メートル以上もある大型建物で、その時期が七世紀前半と後半に推定されています。
蘇我馬子宿禰大臣は「嶋大臣」とも呼ばれ、飛鳥川の畔の家は蘇我馬子宿禰大臣の別業(別宅)が、現在の明日香村島庄にあったとする説が有力です。
おそらく、炊屋姫命(推古天皇)の小墾田宮は、蘇我馬子宿禰大臣の別業を利用したものと推測されます。
図 明日香村「島庄遺跡」 出典:明日香村公式HP
図 奈良県高市郡明日香村豊浦周辺地図
写真 「向原寺(豊浦寺)」址 出典:奈良の観光情報サイトNarakko
写真 豊浦寺(とゆらてら)講堂址の礎石 出典:奈良の観光情報サイトNarakko
3.蘇我馬子の本来の表記
蘇我馬子の「馬子」は『日本書紀』編纂者による蔑称表記です。
本来の表記は「元興寺塔露盤銘」に「蘇我有明子(そがのうめこ)」と刻されています。
次回は「舒明天皇」です。