第三十五話  「神武天皇」(4)

写真  四川省成都市青羊区金沙街道 金沙遺跡出土「太陽神烏金飾」

「八咫烏」の原形か?  出典:金沙遺址博物館所蔵

「三本足の烏が四羽見えます。」

 

○速吸の門

○五瀬命とは

○ナガスネヒコ軍に勝利

○神武天皇の宮と陵墓

1.速吸(はやすい)の門

梶取りの「槁根津彦(さおねつひこ)」(『日本書紀』では椎根津彦(しいねつひこ)と

表記)を得て、神武天皇一行は無事出港できました。

この伝承を伝えるのが、大分県大分市字佐賀関の「早吸日女(はやすいひめ)神社」です。

同社縁起は「神武天皇一行が速い潮の流れに苦しんでいたとき、海女の黒砂(いさご)・

真砂(まさご)姉妹は、大蛸が海底で護っていた神劒を取り上げ、神武天皇に奉献したと

ころ、神武天皇は神劒をご神体とし、祓戸(はらえと)の神を奉り、建国を請願したのが始ま

り。」と伝えています。

ご祭神:八十枉日神(やそまがひのかみ)(=櫛稲田姫=瀬織津姫)・大直日神(=大山

咋)底筒男神(=開化天皇)・中筒男神(=ツヌガアラシト=正統な天皇ではなく

藤原氏によって贈られた贈崇神天皇=ミマキ入彦=ミケ入彦)表筒男神(=安曇磯

良)・大地海原諸神

不思議なことに神社名の「早吸日女」が祀られていません。同様に大直日神(おおなおひの

かみ)の対の神直日神(かみなおひのかみ) も祀られていません。

故百嶋氏は「早吸日女=鴨玉依姫=神直日神=林姫」と指摘しています。

伝承は残されていませんが、主人公の椎根津彦を祀る神社が早吸日女神社の近くに「椎根津

彦神社」があります。

ご祭神:椎根津彦命・武位起命(たけいおこしのみこと、椎根津彦の父大山咋)・稲冰命

(いなひのみこと 椎根津彦の兄)・祥持姫(さかもちひめ・稲冰命の妃)・稚草根

命(わかくさねのみこと祥持姫の御子)

図  早吸日女神社付近の地図 出典:古川清久氏主催ブログ新ひぼろぎ逍遥

写真  早吸日女神社「竜宮城」出典:“ブログひとつ上がりのカフエテラス”

写真 早吸日女神社拝殿  出典:“ブログひとつ上がりのカフエテラス”

2.五瀬命(いつせのみこと)の死

『古事記』

「波速の渡りを経て青雲の白肩津にて停泊した。その時、登美(とみ)の那賀須泥毘古(なが

すねひこ)、軍を起こして待ち構えていました。ここに戦いが始まり、登美毘古とみひこ)が放

った矢が五瀬命に命中し、その傷がもとで死んでしまいました。陵は紀國の竈山に葬りまし

た。」

明らかな敗戦で、神武一行は捲土重来を期して紀伊半島を経て登美の那賀須泥毘古軍に向かい

ます。

舞台設定は太安万侶による創作です。

3.熊野より大和へ

神武を助ける神々として、「大きな熊」「熊野の高倉下(たかくらじ)」「建御雷(たけみか

づち)の神」「八咫烏」「国つ神贄持(にえもち)の子」「国つ神井氷鹿(いひか)」「石押分

(いしおしわけ)の子(こ)」、「高倉下」によってもたらされた横刀の武器「佐土布都(さどふ

つ)の神、またの名甕布都(かめふつ)の神、またの名布都の御魂」が記されています。

  • 大きな熊

大きな熊とは、博多市内に遺存する地名「○○隈」を支配地とした大幡主を指すと推測され

ます。

  • 高倉下(たかくらじ)

『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』によれば、ニギハヤヒの子で、ニギハヤヒに従

い、紀伊国熊野邑に坐し、后神は熟穂屋姫命(にぎほやのみこと)としています。

「神々の系図-平成12年考」によれば、高倉下は贈崇神天皇の后五十鈴姫の弟で、神武天皇

より85歳年少ですから「神武東征」に加われるわけもなく、贈崇神天皇東遷に従って大和へ進

出後は紀伊国熊野邑を経て尾張国高蔵に定住したと推測されます。

・建御雷の神

建御雷の神は、大幡主です。

・八咫烏(やたがらす)

一般には「三本足の烏」と知られており、古くよりその姿絵が伝わり、熊野三山では、烏はミ

サキ神(死霊が鎮められたもの、神使)として信仰され、太陽の化身とも言われます。八咫烏は

豊玉彦のまたの名で、この護送船団の中心として参加していたと推測されます。

写真  熊野那智大社「 八咫烏」  出典:同社HP

(5)「贄持の子」・「井氷鹿」

食糧の調達・水の確保を担当し、「石押分の子」は前進部隊の一員でいずれも現地で調達

したスタッフと推測されます。

(6)久米歌

大伴の連等の祖道臣の命・久米直等の祖大久米命の二人、宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を征

伐。

おそらく、道臣の命・大久米命はこの護送団に参加していなかったようです。その理由は、

彼らは戦闘集団で、九州王朝の御神霊を護送する目的にふさわしくないからです。道臣の命は

宇沙都比古のまたの名で年齢は神武天皇より76歳年少ですから、この護送船団に参加できるわけ

もありません。大久米命は「久米歌」にも現れず、臨地性がありません。

3.ナガスネヒコ軍に勝利

『日本書紀』から検証してみましょう。

天磐船に乗って天下りした櫛玉饒速日命(くしだまにぎはやひのみこと)は、長髄彦(なが

すねひこ)の妹三炊屋媛(みかしやひめ)を娶り、生まれたのが可美眞手命(うましまでのみ

こと)です。長髄彦はニギハヤヒから賜った天神の子の徴を神武天皇が持つ天神の子の徴(し

るし)と比べ合わせたところ、長髄彦の持つ徴は貧弱でした。然し、恐れ入るばかりか叛意を

抱いたので、神武天皇は長髄彦を殺しました。ニギハヤヒは神武天皇に遠慮し、この争いには

参戦しなかったと『紀』は簡潔に記しています。

この説話には重要な疑問点があります。

『記紀』共に饒速日命を海幸彦こと天之忍穂耳命と認識している点です。本来は山幸彦こと

彦火々出見命であるはずです。

そのため「海幸彦と山幸彦」が入かわっているという説もあります。

「神々の体系―平成12年考」によると、天之忍穂耳命の妃であったスサノオの娘瀛津世襲足

姫(おきつよそたらしひめ)は長髄彦の妹です。即ち、三炊事屋媛に該当します。

4.神武天皇の宮と陵墓

故百嶋氏は神武天皇の本拠地を現在の佐賀市金立町~久保泉にかけての領域こそ初期九州王朝

の最大根拠地であり、この一帯こそ甲羅と呼ばれた場所と述べられています。

『記紀』は神武天皇の宮を奈良県橿原市の橿原宮としていますが、百嶋神社考古学では、とて

つもな尊い方を意味する“ひ”の地名を持つ“樋井川”周辺と指摘されています。

橿原(かしはら)”の同音地名に福岡市南区大字柏原があり、ズバリ樋井川に沿っており、考古

学的知見は不明ですが、同地が神武天皇の宮であったと推測されます。

図  福岡市南区柏原周辺の地図

神武天皇の陵墓について、宮内庁は畝傍東北陵(学術名はミサンザイ古墳)を治定(じじょう)

していますが、考古学者の多くは明らかに古墳ではないとして否定的な見解をとっています。

糸島市二丈田中字大塚の「一貴山銚子塚(いっきさんちょうしづか)古墳」を候補とする説もあ

りますが、同古墳の概要は、

前方後円墳  竪穴式石室と推定、築造時期は4世紀末と推定。

同古墳は“完全盗掘”にあっていて詳しいことは何もわかっていません。

私見は「前方後方墳」と考えていますが、候補地を比定するまでには至りません。

 

次回は「長髄彦」です。

 

 

 

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