第百十三話  決戦の地「御井郡」

 

○把木神社社伝

○春秋年二回行われる「鎮祭」

○戦死者はどこに葬られたのでしょうか

○花立山穴観音古墳の被葬者

 

1.把木神社社伝

把木神社  朝倉市把木池田

ご祭神:伊弉諾命・伊弉冉命・大己貴命(おおなむちのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)

本来のご祭神は大己貴命(後の大国主)と武甕槌命(大幡主)の二柱と推測します。

社伝

「第二十六代、継体天皇の御宇、筑紫の磐井らが謀反を企て、異国の御貢物を奪い取る。朝廷勅旨を下し、麁鹿火(あらかい)大連を大将とし、官軍筑紫に進発し、筑後国磐井大連と相戦う。御井郡にて官軍大いに利を得て、遂に磐井を討伐し、麁鹿火即ち凱旋せり。然るに磐井残党青人ら土蜘蛛と力を合わせ、心を均しうし、豊前・筑前の間に蜂起す。(中略)然るに(継体側の)大将鷲丸謂らく。上坐郡には大己貴命・武甕槌命御座しますと聞く.彼の御神の冥助を頼み奉らんは如何にと云う。ここに池田の池という奇異なる池あり。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端出縄を曳き、大幣(ぬさ)を捧げて勝利を祈る.(中略)是によりて青人・土蜘蛛ら此処かしこに滅亡し、両国立所に平定す。(後略)」

同社の社伝は「決戦の地を御井郡」としています。

興味深いのは、『日本書紀』と違い、「物部麁鹿火ではなく、麁鹿火」とし、「磐井を磐井大連」としています。

磐井討伐後も残党の奮戦に手こずり、同社に勝利祈願をしたところ、無事残党を滅亡させたようで

す。

磐井残党軍の将と思われる「青人(あおひと)」とは、どのような人物だったのでしょうか。管見に

は全く見当たりません。

誰かご存知ありませんか。

写真 把木神社  出典:福岡県神社庁朝倉支部

図 熊本県上益城郡山都町大野の基郡幣立神宮所蔵の「五色面」 出典:同社公式ブログ

ご祭神:神漏岐命・神漏美命

「五色面」は世界の五族平和の象徴ともいわれています。

2.春秋年二回行われる「鎮祭」

言い伝えでは、日本の神々は十月出雲大社に集いますが、把木神社の祭神は参加せず、一年中氏子の

安全と豊作を祈り、働き続けるので、年二回はゆっくりと休まれる祭と言われています。

私見は「鎮祭ではなく鎮魂祭」と推測しています。両軍相戦い、戦死者も多くを数えたのでしょう。

戦死者の御魂を弔うために「鎮魂」の祈りを捧げたのだと推測しています。

3.戦死者はどこに葬られたのでしょうか。

図 花立山横穴墓群周辺地図

吉野ヶ里遺跡では、「⒖000基の甕棺墓」が出土しています。戦死者をそのまま放置するわけがないの

で、必ず近くに群集墳があると考え、小郡市のアパートで地図をにらみ続けました。その時、小郡市

観光協会の速水事務局長からアドバイスをいただき、「花立山横穴墓群 小郡市干潟字城山」の見学

に向かいました。

十二分には整備されていませんが、花立山(標高1130.6㍍)の麓だけでは収まらず、田圃の中にも土

饅頭のような土礦墓が遺されていました。おそらく、田圃の開拓で相当数が潰されたと推測され、当

時の墓数は千基をはるかに超えていたと推測します。

当日、カメラを忘れ撮影することが出来ず、今でも悔やんでいます。

図 花立山横穴墓群周辺地図

4.花立山穴観音古墳の被葬者

古くから石室は開口しており、石室(長さ12.3㍍)の側面には線刻という装飾がみられる装飾古墳。

全長33㍍の前方後円墳で、築造は六世紀末頃で、同地域では最後の前方後円墳とされています。

写真 花立山穴観音古墳  出典:小郡市VRパノラマギャラリー

この特徴的な「線刻系装飾古墳」は、私の知る限りでは西隈(にしくま)古墳があります。

西隈古墳 佐賀県佐賀市金立町西隈大字金立

写真  西隈古墳の石棺  出典:蕨手のブログ

詳細な解説に感心しました。

写真 石棺入口両側の線刻文様  出典:蕨手のブログ

築造時期から、同古墳の被葬者は、おそらく「磐井の乱」の勝利者かあるいは敗者と推測されます。

西隈古墳の所在地「金立町西隈」の「隈(くま)」から大幡主系「紀氏(きのし)」との関連性も窺

えます。

 

次回は「異説継体天皇」です。

 

 

 

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