写真 「天橋立と阿蘇海」 出典:阿蘇海ライブカメラ
天橋立の左側が阿蘇海、右側が宮津湾(与謝湾)
○東遷時期
1.仁徳天皇の東遷時期
『高良玉垂神秘書』に「開化天皇は生前に嫡男斯賀礼志命後の仁徳天皇に譲位した。」とする
記述があり、おそらく神功皇后の喪があけた三年後、西暦268年頃に仁徳天皇に譲位し、政権基盤が安定した西暦272年頃に「東遷」が開始されたと推測します。
船団を組織する船長は、不明です。“梶取り”は、真砂こと市磯長尾市(しきながおち)と推測
します。
構成は、仁徳天皇の皇子、朝日豊盛・暮日豊盛命・開化化天皇を祖とする阿倍氏族・スサノオ系
昔氏・瀛氏・大水口・宇麻志麻遅命を祖とする“久米物部軍”や大矢口・ウガヤフキアエズを祖と
する“二田物部軍”・隼人族に加えて誉田別命こと贈応神天皇も参加していたと推測します。
仁徳天皇の東遷も二つのルートを選択しました。
(1)瀬戸内海ルート
目的地すなわち御神霊の鎮座地“大和のイズミ”を目指しました。その痕跡を残すのが「大
和(おおやまと)神社」です。
①大和神社のご祭神の推移
ア.第一次九州王朝御神霊護送船団(神武天皇)
中殿:日本大国魂大神(うあまとおおくにたまおおかみ)を祭祀。日本大国魂大神
は初代神武天皇の祖霊
イ.第二次九州王朝御神霊護送船団(孝霊天皇)
中殿:日本大国魂大神を祭祀
日本大国魂大神を神武天皇として追祀したと推測します。
ウ.仁徳天皇の東遷
新たに左殿と右殿が造営され、
左殿:御年神(みとしかみ)こと贈孝安天皇・九州王朝孝霊天皇旗下の忠臣で第二次
九州王朝御神霊宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を追祀
右殿;八千矛大神(やちほこおおかみ)同じく孝霊天皇の忠臣宇摩志麻遅命(うまし
まじのみこと)を追祀
中殿:日本大國魂大神を新たに孝霊天皇を追祀したと推測します。
同社の宮司職は、代々椎根津彦の末裔が務めていました。
②大和神社の境内摂社
・境内摂社 朝日神社
ご祭神:朝日豊明姫神
一説では、朝日豊明神としています。朝日豊明神は、故百嶋氏によると「仁徳天皇の同
母弟朝日豊盛命で全国に産業革命をもたらした神」と述べています。おそらく、兄の仁徳
天皇と同行し、第三次九州王朝御神霊護送船団に参加したと考えられます。
写真 大和神社 出典:同社HP
図 大和神社境内マップ 出典:同社HP
③夜都伎(やとぎ)神社 奈良県天理市乙木町
故百嶋氏は「東遷九州王朝:謎の一社」と指摘しています。
主祭神:武甕槌命(=大幡主)・姫大神(=神大市姫 別名罔象女・龍神様)・経津主命
(=彦火々出見命・饒速日命)・天児屋根命(=草部吉見・天忍穂耳命・贈孝昭天
皇)
江戸時代末期まで「蓮の御供」として春日大社に神饌を献上。春日大社からは古くなった社
殿・鳥居を60年ごとに同社へ下賜し、使用される伝統が存在しました。
写真 夜都伎神社 茅葺きの拝殿 出典:天理市観光協会HP
(2)日本海ルート
西暦228年、孝霊天皇による第二次九州王朝御神霊護送船団の痕跡が日本海の伯耆国に残
されています。
旧(西)樂樂福(ささふく)神社 鳥取県日野郡日南町宮内
ご祭神: 大日本根子彦太瓊尊(孝元天皇)・細媛命・大吉備津彦命・彦狭嶋命・紐某弟
命(はえいろどのみこと)・大山祇命
仁徳天皇は、偉大な先帝孝霊天皇の足跡を辿り、樂樂福神社に輝かしい大神達を追祀したと
推測します。
写真 樂樂福神社 出典:同社HP
(3)日本海ルートの九州王朝御神霊の一時鎮座地
写真 「天橋立と阿蘇海」 出典:阿蘇海のライブカメラ
天橋立の左側が阿蘇海、右側が宮津湾(与謝湾)
10年ほど前に「天橋立」旅行で「阿蘇海」を初めて知りました。
何故「阿蘇海」と呼ばれるのか.今は何となくわかります。
宮原誠一氏はブログ「神社見聞帳No.132」で第三次九州王朝御神霊護送船団の一時遷座地につ
いて、「元伊勢騒動」を取り上げています。詳しくは同ブログをご覧ください。
この「元伊勢騒動」は『古事記・日本書紀』に取り上げられていません。
鎌倉時代の建治・弘安年間(1275~1288年)に伊勢神宮外宮神官の渡井行忠の撰による神道
五部書の一つ『倭姫世紀』に、騒動の発端となる記述が見られます。
同書には多くの巡行地がありますが、笠縫邑の次は丹波の吉佐宮(元伊勢籠神社)となっていま
す。
しかし、『日本書紀』成立からおよそ550年後の書で、信憑性には疑問があります。
元伊勢籠(この)神社(京都府宮津市大垣430) 丹後
祭神:彦火明命(彦火々出見命) 元の祭神は豊受大神
VS
元伊勢豊受大神社(京都府福知山市大江町天田内60) 丹波
祭神: 豊受大神
写真 元伊勢籠神社 出典:同社HP
写真 元伊勢豊受大神社 出典:同社HP
次回は「仁徳天皇の東遷」(3)です。