第二十二話 大国主(1)

写真  美保神社  出典:美保関町観光公式HP

写真 「青柴垣(あおふしがき)神事」 美保関町観光公式HP

○大奴彦(おおなひこ)の時代

○大己貴命(おおなむちのみこと)“大穴牟遅命とも表記”)の時代

○大國主の時代

 

1.大奴彦の時代

   故百嶋氏説によれば、父大山祇、母埴安姫との間に誕生し、幼少時は母方の祖父金山彦の元で

育てられ、少年期は叔母櫛稲田姫の元で育ち、大奴彦と呼ばれていました。

写真 春日市伯玄町 春日市商工会議所敷地内 伯玄社 自撮り(2018/06/20)

ご祭神:大奴彦

大変小さい祠で、扉はなく、扉内には30㎝程の石柱に「大奴彦」と刻まれている筈なのです

が、苔を剥がすため釘で引っ掻いた傷により判読できません。

    『古事記』が記す木國の大屋毘古の神です。

 2.大巳貴命(大穴牟遅命とも表記)の時代

青年期を迎え、白族統領豊玉彦の姉阿加流姫の娘須勢理姫またの名市杵島姫を娶り、次に豊

玉彦の娘豊玉姫の入り婿となりました。

高貴な二人の女性を娶り、軍事・政治力の才に恵まれた大己貴命は出世の階段を駆け上り、

金山彦の跡を継いで九州王朝の中期親衛隊長の地位に就き、名を大国主に改めました。

『古事記』編纂者太安万侶は、「スサノオ第五代大国主」と記し、トリックの馬脚を現しまし

た。

故百嶋氏は「スサノオと大巳貴命の激突」について、舞台は播磨国で大巳貴命の勝利に終わ

ったと述べています。

スサノオ軍は、朝鮮半島に住む斯羅国の弟たちが編成する軍団を迎え入れ、強力な軍団を編

成しましたが、それを上回る「越智族金氏・瀛氏金山彦・白族豊玉彦軍」の援軍もあり、大巳

貴命軍の勝利に終わったようです。

大巳貴命こと大国主のその後の足跡は、「大幡主・豊玉彦親子の移動経路に一致し、移動経

路の日本海沿岸・関東地方には大巳貴命を祀る神社が林立しています。

3.大國主の時代

(1)大國主神の系譜

ア.多紀理比売命との御子阿遅鉏高日子根(あじすきたかひこね)の神・下光比売命(したて

るひめのみこと)。

      大國主の後継者となった阿遅鉏高日子根神を主祭神として祀る神社は出雲大社周辺に集

中していますが、北部九州にはみられません。

『古事記』は今迦毛(いまかも)の神とも記述しています。

故百嶋氏は、「阿遅鉏高日子根神の父は彦火々出見命、母は豊玉彦の娘豊玉姫としてい

ます。青年期の名は天稚彦(あめのわかひこ 天若彦とも表記)、出世してからは名を阿遅

鉏高日子根命に改め、大矢口物部軍団長に任命された。」と述べています。

下光比売(下照比売とも表記)は妹ではなく、大巳貴命と須勢理比売こと市杵島姫との

御子で、天稚彦こと阿遅鉏高日子根命の妃になりました。

  イ.神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)との間に誕生した事代主

     故百嶋氏は事代主(ことしろぬし)について、「少年期の名は少名彦(すくなひこ)、大

國主の少年期の名は大奴彦(おおなひこ)。二人はともに少年期を福岡県春日市須久で育て

られた。」と述べています。

少名彦の母は豊玉比売で、連れ子のまま大國主に嫁いだようです。

・美保神社  松江市美保関町美保

ご祭神:事代主・三穂津姫命(みほつひめのみこと)こと豊玉姫

    『出雲国風土記-嶋根郡美保郷条』によれば、本来の主祭神は「御穂須須美命一坐」で、後

に『日本書紀』の影響を受けて事代主が合祀されたようです。

「穂須須美姫命(みほすすびのみこと)は豊玉姫のまたの名」です。同社が伝える「青柴垣

(あおふしがき)神事」は事主神が、國譲りの後、青柴垣を廻らし、船を傾け隠れたという説話

を儀式化したものと解説されていますが、同神事をDVDでみると「海から幸を将来する儀式=豊

漁祈願祭」にしか見えません.私の印象と同様に。歴史学者は同解説を否定し「海上安全の儀

式」としています。

写真  美保神社 出典:美保関間稚観光公式HP

「ゑびす様の総本宮」

 

次回は「大國主」(2)です。

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