写真 出雲忌部を祀る「忌部神社」松江市東忌部町
ご祭神:天太玉命(=大幡主)・天児屋根命・天照大神 出典:同社HP
故百嶋氏が示唆した「仁徳天皇の東遷」の痕跡を示す具体的な記述は『古事記・日本書紀』に見当たりません。
○仁徳天皇東遷の背景
○「環境要因」を打破するための施策
○東方の地に産業革命を興す
1.仁徳天皇東遷の背景
(1)九州王朝の王族及び有力部族の支配地の限界
(2)「過剰な森林伐採」による森林資源の枯渇
森林の伐採は、「鉄器(農具を含む)生産・死者を弔う甕棺・民生品の土器増産」によって、
多くの森林を失うと同時に「保水能力」を失い、洪水の頻発により高地性集落を失いました。
(3)「気候の冷涼化」
「3世紀中頃から始まった気候の冷涼化」は、とりわけ北九州の稲作に被害をもたらし、農
民の多くが窮乏しました。彼らは、少しでも気温の高い地区、筑後川左岸下流域へと進出しま
す。
その痕跡と推測されるのが、北九州に発展した弥生時代中期から後期にかけての吉武高木・三
雲井原・須玖岡本・平原・立岩遺跡が、突如うち捨てられたのです。
2.「環境要因」を打破するための施策
環境要因を打破するため新天地の開拓、具体的には東方への進出に舵を切ることでした。
現在の状況を看過すると九州王朝の維持さえ覚束ないため、仁徳天皇が企図した政策は産業革
命を目的とした「東遷」でした。
幸いにして、「伊豫へ進出した大山祇一族」、「山代国へ進出した白川伯王家」「丹波へ進出
したスサノオ一族」などの成功体験があり、彼らは「鉄器を用いた高い農業土木技術・湊の開削」
「航海技術を利しての交易」等で成果を上げていました。
孝霊天皇による第二次九州王朝御神霊護送船団では、ハエイロネ妃との御子、“桃太郎のモデ
ル”と云われる吉備津彦が吉備に進出し、後に「真金ふく吉備の中山」と呼ばれた「鉄鉱石」及び
砂鉄資源の採掘に加えて新製鉄技術によって、吉備国は一大強国へと変貌していきます。
以上の成功体験を踏まえて、仁徳天皇が重視したのは「東方の地に産業革命を興す」政策でし
た。
3.東方の地に産業革命を興す
(1)産業革命の担い手
①先駆者
白族統領大幡主 関東では「天太玉命」の名で祭祀されています。
瀛氏統領金山彦
越智族統領大山祇
昔氏統領スサノオ
②主体的役割
仁徳天皇・朝日豊盛命・暮日豊盛命。
忌部五部族(白族豊玉彦の末裔)
・出雲忌部・・・櫛明玉命「玉」の製造
・阿波忌部・・・天日鷲命「麻の栽培」
・紀伊忌部・・・彦狭知命「植林・伐採・建物の神」
・讃岐忌部・・・手置帆負命「建物の神・盾・刀・斧・鏡・土器製造の神」
・筑紫忌部・・・天目一箇命「祭祀の神」 伊勢忌部に繋がります。
③従属的役割
有力部族が率いる職能集団(物部氏・安曇氏など)は筑紫から陸続と離れていきました。
(2)産業革命の具体的骨子
①高い土木技術を駆使して、河川の改修・ダム及び貯水池の造成を通じて「新田の開発」。
②農業技術部門では稲作以外の「養蚕・繊維製品に転用する植物の栽培」。
③繊維技術部門では「麻」から、衣類・紙・縄・麻袋が作られ、派生したのが「機織機・染
色・縫製など」の開発開発であり、人材の指導・育成です。
④民生部門では豊玉彦の末裔「忌部五部族」の指導普及は顕著でした。
写真 出雲忌部を祀る「忌部神社」松江市東忌部町
ご祭神:天太玉命(=大幡主)・天児屋根命・天照大神 出典:同社HP
写真 阿波忌部を祀る「忌部神社(吉野川神社)」徳島県吉野川市山川町忌部山
主祭神:天日鷲命・天太玉命(祖神)・后神比理能命(豊玉彦の妃杉山姫こと天屁理刀
売命) 出典:ぱわすぽ日和
写真 安房国一宮「安房神社」千葉県館山市大神宮
ご祭神:天太玉命(=白族統領大幡主)出典:同社HP
相殿神:天比理刀咩命(本来の表記は天屁理刀売命。名の由来は懿徳天皇の皇后時代は天豊津姫、建
盤龍命に略奪された後は阿蘇津姫。周囲からは天屁理姫(アメノヒリヒメ)との蔑称で呼ば
れました。「父の天忍穂耳命こと贈孝昭天皇は豊玉彦に願い、杉山姫と名を改めて豊玉彦の
妃として迎え入れられた。」と故百嶋氏は述べています。
「安房」は「阿波」の東遷地名です。
写真 紀伊忌部を祀る「鳴(なる)神社」 和歌山市鳴神
主祭神:速秋津彦命(=豊玉彦)・速秋津姫(=豊玉彦の妃豊秋津姫)・天太玉命
(=豊玉彦の父大幡主) 出典:神奈備
写真 筑紫・伊勢忌部を祀る「別宮一目連神社」 三重県桑名市多度町多度「多度大社境内摂
社」
主祭神:天目一箇神(あめのまひとつかみ=豊玉彦) 出典:多度大社HP
写真 讃岐忌部を祀る「忌部神社」香川県三豊市豊中町笠田竹田
主祭神:手置帆負命(たおきほおいのみこと 祖神 建築の神様)
忌部の諸祖神天日鷲命(豊玉彦の御子)・櫛明玉命・彦狭命・天目一箇命
出典:いんべのルーツ
写真 吉備王国の威信財その2 「作山古墳の航空写真」総社市三須
出典:Wikipedia(2022/03/10 10:45)国土交通省国土地理院地図・空中写真を基に作成。
全長285㍍の前方後円墳。「造山古墳」とは3キロ離れていますが、同じ方向に古墳が向い
ており、深い関係が推測されています。
築造時期は5世紀中頃とされていますが、「箸墓古墳」の円筒埴輪を基準にした編年であ
り、根拠はありません。
私見は、被葬者を吉備津彦の弟「吉備武彦」とし、築造は3世紀末頃と推測します。
写真 埴輪の起源と考えられている「特殊器台・特殊壺」
「作山古墳」からも同様の「円筒埴輪・朝顔埴輪」が出土しています。表記の違いは、
考古学者の名誉欲によるものです。
出典:Wikipedia(2022/03/10 10:47)埴輪の起源と考えられている特殊器台・特殊壺
(複製 国立歴史民俗博物館蔵)
Wikipediaによると、「1967年には近藤義郎と春成秀樹により、円筒埴輪が弥生時代後
期後葉(2世紀後半)の吉備地方の特殊器台・特殊壺を祖源とし、3世紀後半までに成立し
てきたとする変遷過程が示された。」としています。
注)
・近藤義郎(1925~2009年没)日本の考古学者・岡山大学名誉教授
・春成秀樹(1942年~)日本の考古学者・現国立歴史民俗博物館および総合研究院大学院大
学名誉教授)
次回は「仁徳天皇の東 遷」(2)です。