写真 高良山頂上を目指すハイク客
頂上に出れば、筑後川・筑紫平野や遠くの山々が眺望できます。
○太子誉田別命(ほむたわけのみこと)はなぜ、気筍大神(けひおおかみ)を拝んだのでしょうか。
○誉田別命出生の秘密
○甘美内宿禰(うましまちすくね)による武内宿禰(たけうちすくね)の讒訴
1.太子誉田別命はなぜ、気筍大神を拝んだのでしょうか。
気筍大神は福井県敦賀市曙町の氣比神宮の主祭神「伊奢沙別神)」として祀られています。
故百嶋氏は「伊奢沙別神(いさざわけかみ)」をスサノオのまたの名」としています。
『記紀』は神功皇后の命により、武内宿禰(たけうちすくね)が太子誉田別命に随行し、氣
比大神を拝んだとしています。
その理由について海人説・易名説話・天日槍の神宝「肝狭浅太刀(いささのたち)」との
関連性を指摘する説などがありますが、誉田別命と伊奢沙別神との関連性が希薄で信頼に足
る説とは考えられません。
故百嶋氏は、瀛氏(いんし金山彦)直系の櫛稲田姫の娘鴨玉依姫が、瀛氏の象徴である
「十字剣」を誉田別命に授けたと述べています。
この行為は、誉田別命を瀛氏の後継者に指名したことを物語ります。
鴨玉依姫の夫大山咋(おおやまくい)はスサノオの孫で、鴨玉依姫の行為は瀛氏と昔氏
(そくしスサノオ)の絆を深めたことになります。
誉田別命はその証として氣比神宮の伊奢沙別神を拝むことにより、盟約を果たしたのでは
と推測します。
では、なぜ鴨玉依姫は自分の御子でもない誉田別命に「十字剣」を授けたのでしょうか。
どうやら、誉田別命の出生に隠されているのではと推測します。
2.誉田別命出生の秘密
ツヌガアラシトこと贈崇神天皇の祭祀におけるハンドルネーム中臣烏賊津臣(なかとみいかつ
おみ)が開化天皇ではなく、30歳以上も年下の神功皇后にお仕えした理由が判然としません。
宮原誠一氏はブログ“神社見聞牒No.88八幡神の誉田別命の両親の痕跡を示す小江(こえ)八幡
神社を取り上げ、驚くべき仮説を提起されています。
「息長帯比売は贈仲哀天皇と一年足らずで別れた後、ツヌガアラシトとの間に誉田別命をも
うけた後に開化天皇の皇后になられました。」
宮原氏は、ツヌガアラシトが「別王(わけおう)」の血筋を繋ぐために、母親の鴨玉依姫が瀛
氏の象徴である「十字剣」を誉田別命に授けたと考えられたようです。
しかし、故百嶋氏は「誉田別命は天皇の血筋をひいている。」という発言がひっかかります。
3.甘美内宿禰による武内宿禰の讒訴
「神々の系図-平成12年考」によると、ウマシウチ宿禰の父系祖父母と武内宿禰の母系祖父母
は同じで、かつ両者ともに生年はAD222年です。
また、同系図では山下影姫の兄は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、
夫を孝元天皇としています。
「古代阿倍氏系図」では、武内宿禰と甘美内宿禰を兄弟としています。
彦太忍信命(ひこふとおしのぶのみこと)-屋主忍男武雄心命-武内宿禰(兄)
甘美内宿禰(弟)
両者の系譜から、武内宿禰と甘美内宿禰の祖父母は共通していますが、両親は違っています。
格式は断然、孝元天皇の皇子武内宿禰が上位です。
甘美内宿禰による武内宿禰の讒訴は「盟神探湯(くがたち)」に委ねられ、勝者は武内宿禰、
敗者の甘美内宿禰には死が与えられました。
表 ウマシマチ宿禰と武内宿禰の系譜
甘美内宿禰 AD222年生 |
父 屋主忍男武雄心命
AD192年生 |
祖父:彦太忍信命(またの名内色許男命)
AD170年生 祖母:葛城高千那姫(またの名菅忍比売) AD176年生 |
母:不明 | 祖父:不明
祖母:不明 |
|
武内宿禰
AD222年生 |
父:孝元天皇
AD200年生 |
祖父:孝霊天皇
AD176年生 祖母:細姫(=壱與) AD180年生 |
母:山下影姫
AD202年 |
祖父:彦太忍信命(またの名内色許男命・忍山宿禰)
祖母:葛城高千那姫(またの名菅忍比売) |
注)生年は故百嶋氏の推定
写真 久留米市御井町「高良大社」 出典:同社公式ウェブ
神紋「木瓜(もっこう)」開化天皇の紋
ご祭神:向かって右 八幡大神
中央 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
向かって左 住吉大神
拝殿の格子天井
社殿格子天井の彩色画
九州最大級の神社建築 社殿は国の重要文化財
次回は番外編「神功皇后-三韓征伐」です。