第百四十二話  「天智天皇」(4)

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写真 大安寺 光仁会“癌封じ笹酒祭り”一月二十三日開催

 

 

天智天皇の皇后・妃及び御子

○なぜ、天智天皇は天武天皇に四人の娘を嫁がせたのか。

○天武天皇の支配地はどこか。

 

.天智天皇の皇后・妃及び御子  

いずれも天智七年二月の記事です。「天智七年春正月 天皇に即位した翌年」の記事です。日

本書紀編纂者が整合性を保つため、天智七年二月に記事を挿入したと考えられます。

実際は、それ以前の記事だと考えられます。

(1)皇后 倭姫王 古人大兄皇子の娘

御子の記述はありません。

(2)嬪 蘇我遠智娘(おちのいらつめ) 蘇我倉山田石川麻呂の娘

第一皇女 大田皇女 天武天皇の妃 大津皇子・大来皇女の母

第二皇女 鸕野讃良皇女(後の持統天皇) 天武天皇の后 草壁皇子の母

第三皇子 建皇子

蘇我遠智娘について、『日本書紀―天智七年二月条』に面白い記事がみえます。

「蘇我石川麻呂の娘曰く越智娘。或本に云う美濃津子娘。」

「或本に曰く。蘇我山田麻呂大臣の女を茅渟姫と云う。大田皇女と沙羅羅皇女を生めりと云う。」

押坂彦人大兄皇子を父に持つ茅渟王は、吉備姫王を娶り、生まれたのが寶皇女、後の皇極天皇で

す。

蘇我越智娘が、仮に茅渟王の娘であるならば、後の皇極天皇の妹か姉かわかりませんが、中大兄皇

子の叔母ということになります。

また軽王後の孝徳天皇も茅渟王の王子ですから、孝徳天皇と寶皇女後の皇極天皇は異母兄妹の関係

になります。

第百三十二話で紹介しましたが、36歳で皇后に即位した寶皇女はその後、二男・一女を生み、其の

一人が葛城皇子こと中大兄皇子です。

名前からもわかるとおり、兄がいたはずですが、日本書紀には記述がありません。

仮に茅渟姫こと蘇我越智娘が寶皇女の妹であるならば、少なくとも中大兄皇子よりも30歳以上高齢

と成り、夫人に迎えることなどありえません。

「大安寺伽藍并流記資材帳」に以下の記録があります。

「一帳 像具脇侍菩薩卅六像 右越智天皇 坐難波宮 而 庚戌年(白雉元年 650年)    

 十月 始辛亥年(651年)春三月造畢 即請者」

『日本書紀-孝徳紀白雉元年冬十月条』

「是月 始造丈六繍像・挟侍・八部衆卅六像」

両記事は見事に対応しています。

越智・孝徳両天皇は難波宮で天下を治していたことになります。

皆さんは、此の両記事をどのように考えますか。

大安寺の創建に関して、「大安寺資材帳」は

「天武二年十二月十七日 御野王(美濃王)と紀訶多麻呂が造寺司に任命され、この時に百済の

地から高市の地に移した。」とあります。

『日本書紀-天武記二年十二月十七日条』

「小紫十二月十七日美濃王・小錦下紀臣多麻呂を以て、高市大寺造司に任命。」

「小紫」は、天智天皇が即位前紀に制定したといわれる「冠位二十六階」では、序列第六位です。

「壬申の乱」で活躍した報奨とする歴史学者の見解がありますが、肝心の「壬申の乱」には登場

していません。

私見ですが、美濃王は九州王朝倭国の有力貴族で天武天皇即位に貢献した人物ではないかと推測し

ます。

紀臣訶多麻呂は、九州王朝に尽力してきた「白族大幡主の後裔」と推測します。

美濃津子娘と美濃王の関係はわかりませんが、何故か、気になります。

此の両記事も興味深いですね。

図 「茅渟王」の系図

写真 大安寺 光仁会“癌封じ笹酒祭り”一月二十三日開催  出典:大安寺公式HP

注)大安寺  奈良市大安寺町2丁目

縁起に依れば、聖徳太子の建てた「熊凝精舎」が官寺となり、その後に移転や改称を繰り返し、平城

京に移って大安寺と称したとあります。南都七大寺の一つ。

(3)嬪 蘇我姪姫 越智娘の妹

第三皇女 御名部皇女 後に高市王子の妃 長屋王の母

第四皇女 阿閉皇女  後に文武天皇の皇后、文武天皇崩御後、慶雲四年(707年)元明天皇とし

て即位。和風諡号「日本根子天津御代豊国成姫皇」『続日本紀』では「阿閉皇女」と表記。

父は蘇我石川麻呂大臣 母は宗我嬪(そがひめ)

日本書紀は、持統天皇の藤原宮で育てられたとの記述。元正天皇・吉備内親王の母

濃厚な蘇我氏の血筋であることがわかります。

(4)嬪 橘娘(たちばなのいらっこ)阿倍倉梯麻呂大臣の娘

第五皇女 飛鳥皇女

「万葉集」196番歌 明日香皇女城上の殯宮の時

柿本人麻呂作歌

持統天皇は、明日香皇女の病気平癒のために沙門104人を出家。

第六皇女 新田部皇女 天武天皇の妃 舎人親王の母

(5)嬪 常陸娘(ひたちのいらっこ) 蘇我赤兄大臣の娘

第七皇女 山邊皇女 大津皇子の妃

(6)宮人 越道君伊羅都売(こしのみちきみいらつめ)  父は越道君

第七皇子 施基皇子   光仁天皇の父

(7)宮人 伊賀采女宅子娘(いがうねめやかこのいらっこ) 父は伊賀国造伊賀臣果安

第一皇子 伊賀皇子 後の字を大友皇子

(8)宮人 色夫古娘(しこぶこのいらつめ)忍海造小龍の娘

第三皇子 川島皇子

皇女   大江皇女 天武天皇の妃

皇女   泉皇女  大宝元年から伊勢斎宮

(9)宮人 黒媛娘  栗隈首徳萬の娘

水主皇女

 

2.なぜ、天智天皇は天武天皇に四人の皇女を嫁がせたのか。

この四人の皇女大田皇女・鸕野讃良皇女・新田部皇女・大江皇女問題に関する論考は、私の記憶す

る範囲では管見に見えません。

しかし、民間の古代史研究家の中では必ず話題になります。

多数意見は、天智天皇が大海人皇子を取り込むための政略結婚と。

政略結婚とするならば、何故大海人皇子は大友皇子と戦うことになったのでしょうか。

私見は、天智・天武天皇を兄弟とは見ていません。

九州王朝にとって「自称天智天皇」の存在は認めがたい存在でした。

天智天皇は大海人皇子を九州王朝から派遣された監視役と認識していたと推測します。

天武天皇は狡猾です。天智天皇の懐柔策を逆手に取り、有力豪族蘇我・阿倍氏の血筋を引く皇

女達をゆすり取ったと推測します。

天智天皇の政権基盤であった蘇我氏との関係が天武天皇側に移ります。

天武天皇はその時期を窺います。

 

3.天武天皇の支配地はどこか。

日本書紀は、大海人皇子後の天武天皇(以下、天武天皇と表記します)の支配地(屯倉)について

全く言及していません。

この謎を解く鍵が「天武元年夏五月条」記事です。

「是の月に、天皇(天智)の許可を得て朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)は私事を理由に美濃

に至る。」

朴井連雄君は大海人皇子の命で美濃に赴いたと推測します。

其処に待っていたのは天武天皇こと美濃王が待っていたと推測します。

したがって、天武天皇の支配地は美濃国本拠は現岐阜県不破郡垂井町付近と推測され、九州王朝

倭国から「美濃王」として任命されていたようです。

関が原を抜けるとそこは近江国です。

 

次回は「壬申の乱」です。

 

 

 

 

 

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