図 纏向遺跡周辺地図
発掘範囲を広げては今も続いているようですが、現在に至るまで「宮」の建物遺構が発見出来て
いない状況です。
○自称神武天皇
○二人のハツク二シラス論
○纏向宮
○贈崇神天皇ことツヌガアラシトの家系図
1.自称神武天皇
故百嶋氏は、「大和(やまと)国を支配地として与えられたツヌガアラシトは、現地で「自称
神武天皇」を名乗り、方々に吹聴して廻り、纏向を拠点とした」と講演会で述べています。
2.二人のハツク二シラス論
戦後、歴史学会では「二人のハツク二シラス論」から派生して「神武天皇架空説」が飛び交い、
現在も続いているようです。
神武天皇東遷以後、皇后の名が唐突にすり替わっている記述に対して、歴史学者は失念してい
るようです。
○『日本書紀-神武天皇』
「始馭天下之天皇(ハツク二シラススメラノミコト)」
「始めて天下をシラス天皇」
○『古事記-崇神天皇』
「所知初国之御眞木天皇(ハツク二シラス御眞木天皇」
「初めて国をシラス御眞木天皇」
両記事を比較すると、「二人のハツク二シラス論」に違和感を覚えませんか。
贈崇神天皇は「天下ではなく、初めて国を支配地とすることができた。」のです。
贈崇神天皇は、初めての支配地で「栄光ある初代神武天皇」を騙ったのです。
3.纏向宮
纏向遺跡の名の由来は、垂仁天皇の「纏向珠城宮」、景行天皇の「纏向日代宮」より名付けら
れました。
同遺跡から弥生時代の集落や環濠も検出されていないことから、同遺跡は突然出現し、ごみの
一斉投棄後、唐突に打ち捨てられたことがわかります。
同遺跡には祭祀遺跡と鍛冶遺跡が認められものの、宮殿遺跡は認められません。大集落遺跡と
喧伝されていますが、人が住む集落跡や農工具も殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多
いのです。この工具の用途を検討すると、道路遺構が検出されていないので、矢板で護岸した幅5
m、深さ1mの直線的な水路造成にあったのかもしれません。
したがって、現時点の発掘調査では「纏向宮」を想定することは出来ません。
写真 「纏向遺跡居館跡の調査」案内板 出典:桜井市HP
4.贈崇神天皇ことツヌガアラシトの家系図
表9 贈崇神天皇ことツヌガアラシトの家族
関係 | 名前 | 生年 |
父 | 大山咋またの名熊甲安羅梶彦・大直日・速瓶玉 | AD162年 |
母 | 鴨玉依姫またの名神直日 | AD167年 |
姉 | 活玉依姫、夫は事代主 | AD187年 |
兄 | 稲飯命 | AD193年 |
弟 | 倭彦またの名椎根津彦(梶取) | AD197年 |
妃 | 大海姫、父ウガやフキアエズ、母は下照姫 | AD200年 |
長男 | 八坂入彦またの名豊城入彦(母)大海姫 | AD215年 |
次男 | (盟神探湯)壱岐真根子(母)五十鈴姫 | AD222年 |
長女 | 国片姫後に孝元天皇の妃(母)五十鈴姫 | AD224年 |
生年は故百嶋氏の推定
図 故百嶋雄一郎氏作成「贈崇神天皇(中臣氏の始祖)の系図」
次回は番外編「都怒我阿羅斯等」です。