第五十六話  「崇神天皇」(2)

写真  「日本一高い」日御碕灯台 出典;しまね観光ナビ

写真 「日が沈む聖地出雲」  出典:しまね観光ナビ

○『古事記・日本書紀』が記す「神々の祭祀」

○「四道将軍」の派遣

○. 武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反

○出雲大社神宝強奪事件

1.『古事記・日本書紀』が記す「神々の祭祀」

(1)『古事記』

疫病の流行により、人民の死者が多数にのぼりし時、「大物主神が夢に現れ、意富多多泥

古(おおたたねこ)を用いて我が御前を祀れば、國安らかに平らかになる。」との託宣を受

け、早速意富多多泥古を探したところ、「吾は大物主大神と陶津耳命(すえつみみのみこ

と)の娘、活玉依姫(はえたまよりひめ)の御子」と名乗り、氏素性の高さを説明しまし

た。

これに喜んだ天皇は、御諸山に意富美和大神(おおみわおおかみ)の神主に採用したとこ

ろ、たちどころに疫病は止み、国家は安らかになった。

登場人物を故百嶋氏の講演会から考察すると

大物主大神

義理の大物主「大国主」、真の大物主「大山咋(おおやまくい)」、代理の大物主

「事代主」という構図です。

意富多多泥古

事代主の変名です。また、事代主は「義理の大物主こと大国命の御子」ではなく、

豊玉姫の連れ子です。

現代で云えば、経歴詐称ですね。

○陶津耳命

活玉依姫の母であるならば、鴨玉依姫となりますが、名に「耳」がありますので、阿蘇

族の娘かもしれません。

○活玉依姫

故百嶋氏は大山咋と鴨玉依姫の御子で、後に事代主の妃となります。

(2)『日本書紀』が記す疫病の流行ならびに国内政情不安の原因が宮殿内に祀る天照大神・倭大

國魂二神の対立。

倭大國魂こと孝霊天皇と天照大神の、両神が対立などありえない話です。

神がかりした倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)が「大物主神」を祀らせ給え

とする託宣により、大田田根子を以て大物主神を祀る祭主とし、また市磯長尾市(しきなが

おち)を以て大國魂神の祭主としたことにより、天皇の思い煩いが解消したとあります。

倭迹迹日百襲姫命は前述したように孝元天皇の皇后で、この人物設定はありえません。

故百嶋氏によると、市磯長尾市は、椎根津彦と宇佐津姫との間に生まれた黒砂(いさ

ご)・真砂(まさご)姉弟の弟真砂で、またの名増御子です。

兵庫県豊岡市出石町の「出石神社」の宮司は、増御子の子孫が祭神である天日槍ことスサ

ノオを1800年間祀っていることになります。

写真  出石神社  出典:兵庫県公式観光サイト

国内政情不安とは、一時期九州を制覇した阿蘇の暴れん坊集団「大神(おおが)一族」に

起因すると考えられます。

彼らは「市杵島姫」を担いで九州で暴れ回ります。

その時期は、孝霊天皇による第二次九州王朝御神霊護送船団、続いて伯耆国への進出があ

り、九州内の防衛力に隙間が出来たときに重なります。

体制を立て直し、防衛力を強化した九州王朝軍によって、数年で鎮圧されたようです。

2.「四道将軍」の派遣

『日本書紀』記事から検証してみましょう。

○北陸道 将軍大彦命(おおひこのみこと)

大彦命は孝元天皇の長男(生年AD216年)

○東海道 将軍武渟川別(たけぬなかわわけ)

大彦命の御子で、生年は不明

○西海道 将軍吉備津彦

吉備津彦は孝霊天皇の長男(生年AD211年)

○丹波道 将軍丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)

彦坐王の嫡男 またの名ヤマトタケル((生年AD190年)

将軍丹波道主命以外は天皇の御子です。年齢も丹波道主命は他の将軍よりも20歳以上高齢で

す。

したがって、「四道将軍」は構成に違和感があります。

3.武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反

武埴安彦の謀反を察知した大彦命は贈崇神天皇に早速報告しました。謀反軍は二手に分けて

宮を襲撃する計画で、武埴安彦の妻吾田媛(あたひめ)は大阪、武埴安彦は山背(やましろ)

に陣を敷きましたが、迎撃軍は先手を打ち、大彦命を将軍に、副将軍に彦国葺命を配して謀反軍

を攻撃し、彦国葺命が放った矢は武埴安彦の胸を貫いたことにより、戦いは一方的に大彦命軍

の勝利となりました。

故百嶋氏によれば、武埴安彦王は、孝元天皇と埴安姫との間に生まれた皇子で、贈崇神天皇

よりも圧倒的に格式が高く、格下の贈崇神天皇に反乱を起こす理由は考えらません。

では、武埴安彦王は誰に対して謀反を起こしたのでしょうか。

答えは父孝元天皇の後継者開化天皇以外考えられません。理由は天皇位を継げないことを恨

んだからでしょう。

彦国葺命の父は天葺根命(あめのふきねのみこと)こと大山咋(おおやまくい)、母は出雲

和邇氏小野氏の娘で、弟は武振熊です。

出雲和邇族小野氏の本拠日御碕(ひのみさき)神社 島根県大社町日御碕

ご祭神:下の本社 天照大御神 上の本社 素戔嗚尊

スサノオの孫天葺根命によって造営されたとの伝承があります。通称は「日沈宮(ひしず

みのみや)」

写真  日御碕神社(通称日沈宮) 出典:Wikipedia(2021/10/09 16:38)

4.出雲大社神宝強奪事件

武夷鳥(天夷鳥とも表記)が天より将来した神宝を出雲大神に奉納したことを知った贈崇神

天皇はこの神宝を見たいと矢田部造の遠祖武諸隅(たけのもろすみ)を派遣しました。

ちょうどその時期に筑紫に出かけていた神宝を司る出雲臣の遠祖出雲振根(いずものふる

ね)が不在であることを奇貨として、出雲振根の弟飯入根(いいいりね)を言葉巧みにだま

し、神宝を献上させました。

筑紫から戻った出雲振根はこの事態に驚き、弟飯入根を責め立てた後斬殺します。これを知

った贈崇神天皇は武渟河別を派遣して出雲振根を誅殺した事件です。

「神々の系図-平成12年考」に沿って同事件を検証したい。

武夷鳥は、出雲国王を兼任した天菩比命こと豊玉彦と武内足尼の間に生まれた王子で、第二

代出雲国王建比鳥命と同一人物で、出雲国経営に尽力しました。

したがって、「白族」に伝わる神宝を出雲大神に奉納したとする記述は事実を含んでいたか

もしれません。

建諸隅は、ウガヤフキアエズと下照姫との間に生まれた王子で、出雲係を任じられており、

自称神武天皇を名乗るツヌガアラシトの家臣でもありません。

『出雲国造神賀詞(いずもこくぞうかみよごと)』によれば、新任の国造が天皇に就任の報告

と祝詞を奏上する儀式があり、この儀式に出席するため、出雲振根は筑紫の孝元天皇のもとへ

出かけて行ったと考えられます。

 

次回は「崇神天皇」(3)です。

 

 

 

 

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