写真 阿蘇神社楼門 出典:同社HP
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○青年期の名大倭彦(おおやまとひこ)
○懿徳天皇の皇后
○懿徳天皇の御子
○皇后天豊津姫略奪事件
○皇后奪回は成功したのか
○阿蘇津姫を祀る神社
○宮と陵墓
1.青年期の名「大倭彦(おおやまとひこ)」
故百嶋氏によると、懿徳天皇の少年期の名は「大倭彦」とし、また『魏志』倭人伝が記す
「卑弥呼の給仕係」と述べています。
同天皇に関する『古事記・日本書紀』記事は簡潔で、故百嶋氏の講演会で採録されたDVD等
から資料補強して辿ってみましょう。
故百嶋氏は、卑弥呼は百歳ぐらいまで生きたと述べ、卑弥呼が懿徳 天皇へ譲位したのは西
暦180年頃と推測されます。卑弥呼68歳。懿徳天皇24歳の時でした。
2.懿徳天皇の皇后
(1)『古事記』の記述
師木県主(しきあがたぬし)の祖賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)またの名飯
日比売命(いいひひめのみこと)
不思議なことに皇后の両親の名前が見えません。
(2)『日本書紀』の記述
母は渟名底仲媛命(ぬなそこなかひめのみこと)と云い、事代主神の孫、鴨王の娘天豊津
媛命(あめのとよつひめのみこと)。一に云う、磯城縣主葉江(しきあがたぬしはえ)の男弟
猪手(いのて)の娘泉媛(いずみひめ)、磯城縣主太眞稚彦(しきあがたぬしふとまわかひ
こ)の娘飯日媛(いいひひめ)
(3)故百嶋氏説
「神々の体系-平成12年考」によると皇后天豊津姫の父は草部吉見(かやべよしみ)後の贈
孝昭天皇、母は高木大神の娘𣑥幡千々姫(たくはたちちひめ)としています。
3.懿徳天皇の御子
(1)『古事記』
「師木県主の祖、賦登麻和訶比賣命(ふとまわかひめのみこと)、亦の名は飯日比賣命
(いひひめのみことを娶り、生みませる御子、御間津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねの
みこと)。次に多藝志比古命(たぎしひこのみこと)の二柱。故、御間津日子訶恵志泥命
は、天の下を治らしめしき。」
師木縣主の祖は師木津日子彦こと大幡主ですから、賦登麻和訶比賣命は大幡主の娘かもし
れません。
御間津日子訶恵志泥命は草部吉見こと天忍穂耳命となります。
多藝志比古命は、草部吉見(かやべよしみ)の弟健盤龍命で、懿徳天皇の皇后天豊津姫を
略奪した張本人です。天豊津姫は、略奪された後、名を阿蘇津姫に改めます。
太安万侶は、阿蘇耳族を中心とした系譜作りにいそしんだようです。
(2)『日本書紀』
「母は渟名底仲津姫命ともうす。事代主の孫、鴨王の娘なり.(中略)天豊津媛命を立てて
皇后とす。后、觀松彦香殖稻(みまつひこかあしねの)天皇生まれます。」
『古事記』と違い、正確に皇后の名を記しています。
觀松彦香殖稻天皇とは、草部吉見こと天忍穂耳命で、後に藤原氏によって天皇名を贈られ
た贈孝昭天皇です。
4.皇后略奪事件
故百嶋氏は講演会で「西暦166年、手研耳命こと建盤龍命によって皇后が略奪されました。年齢は天豊津姫の方が手研耳命より11歳年上です。略奪の翌年、二人の間に誕生したのが雨宮媛です。略奪後、天豊津姫は阿蘇津姫に名を改められた。」と述べています。
5.皇后奪回は成功したのか。
結論から申し上げると奪回作戦は行われなかったようです。不思議なことに、懿徳天皇並びに生存中であった卑弥呼等は皇后天豊津姫を何故奪還しなかったのでしょうか。推測すると、以下の二点が浮かびます。
- 奪還軍を編成できなかった。
- 天照大神こと卑弥呼は遠征軍を呼び戻さず、懿徳天皇に失望していました。期待を寄せていたのは十二歳の少女であったと思われます。
6.阿蘇津姫を祀る神社
肥後国一宮 阿蘇神社 熊本県阿蘇氏一の宮町宮地
ご祭神:健盤龍命(阿蘇津彦命)をはじめ12の家族神を祀る
阿蘇津姫は「二の神殿」二宮に祀られています。
写真 阿蘇神社楼門 出典:同社HP
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7.宮と陵墓
宮はおそらく、卑弥呼の宮となった桧原(ひばる)近辺か或いは卑弥呼の宮をそのまま引き継
いだ可能性がうかがえます。
陵墓も、神武天皇と同様に急激な都市化はその特定性を阻んでいるのが実情です。
図 「神々の系図-平成12年考」
生年は故百嶋氏の推定です。
次回は「孝昭天皇」です。