写真 吉野ヶ里遺跡 弥生後期(2世紀中頃)の大規模環濠と高倉床倉庫群
出典:文化遺産の世界
○長髄彦の家系
○長髄彦の叛
○その後の長髄彦
1.長髄彦の家系
表 長髄彦を中心とする家系
名前 | 血縁関係 | 生年 | またの名など |
スサノオ | 父 | AD127年 | 天日槍命・天手力雄命・骨正など |
櫛稲田姫 | 母 | AD134年 | 瀬織津姫 |
市杵島姫 | 腹違いの姉 | AD147年 | 母アカル姫 別名スセリ姫 |
長髄彦 | 本人 | AD150年 | 岐神 |
八坂刀売 | 妻 | AD184年 | 旧名奈留多姫 |
瀛津世襲足姫 | 実の妹 | AD152年 | |
安日彦 | 義兄 | AD138年 | 草部吉見・天忍穂耳・大年神 |
辛国息長大姫 | 腹違いの妹 | AD154年 | 母神大市姫 別名天細女 |
生年は故百嶋氏の推定
2.長髄彦の叛
九州王朝に対する反乱の理由について、故百嶋氏は述べていませんが、おそらく支配地を廻る
戦いであったと推測します。
戦いは『記紀』が記すような長閑な戦いではなく、激しい戦闘が九州の地で繰り広げられたよ
うです。
この反乱について、ブログ「神社見聞牒」を主催する宮原誠一氏は以下のよう記しています。
ブログ「神社見聞牒 宮原誠一」
「戦闘は福岡県矢部川(八女市矢部村の三国山に源を発し、上流から中流域にかけては筑肥山地の北縁を西に流れ、有明海に注ぐ)以北の北筑後から福岡市東部一帯で行われ、決戦の地は吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ケ里町)で、総括指揮官は神武天皇と共立された「ヒミコ」で、構成は大国主率いる匈奴・物部軍とニギハヤヒ率いる北筑後物部軍及び邪馬壹国連合軍で、戦いの激しさは吉野ケ里遺跡公園の西の墓地群に見ることができる。やがてナガスネヒコ軍は、降伏勧告を受け入れ、ナガスネヒコ軍は配下氏族と共に東北地方へと配転された。」
また、ブログ「吉野ケ里遺跡公園」から、激しい戦闘があったことが確認できます。
ブログ「吉野ケ里遺跡公園」
「15,000基を超える甕棺墓が出土し、北側には、真ん中に道が設けられていて、その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられている。当時の死者に対する思いは格別なものがあった。葬られた人々は頭部がないもの、肩や腕に刀傷を受けた跡、腹部に10本もの矢を射こまれたものもある。人骨の特徴は、身長が高く、顔は面長で、鼻が低いなど中国大陸から渡って来た“渡来系”と呼ばれる人々に共通している。」
「吉野ヶ里遺跡」周辺は、ナガスネヒコの支配地の一つで、敗戦後も生き残った将兵や家族らによって手厚く埋葬したのが、15,000基を超える甕棺墓であったと考えられます。この乱の開始時期はAD172年前後と推測され、敗戦後のナガスネ彦は処刑されること無く、罪一等を減ぜられ、九州から追放されました。
父のスサノオは恥じて、「卑弥呼こと天照大神に金山彦が打った天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を献上した」と故百嶋氏は述べています。
注)天叢雲剣
イメージの殆どが「銅剣」としていますが、私見は「鉄剣」と推測しています。
写真 「吉野ヶ里遺跡公園」出典:吉野ヶ里歴史公園HP
写真 吉野ヶ里遺跡で出土した「甕棺」 出典
図 吉野ヶ里公園周辺地図
北部は背振山地に囲まれている自然の要害、東部は筑後国、西部・南部は肥国
3.その後の長髄彦
故百嶋氏によれば、「当時山背国を支配していた豊玉彦によってナガスネヒコは保護されて
いた」と述べています。
その後、山背→ 諏訪→北関東地方に移動後は、名を岐(クナト)神と呼ばれ、鹿島神宮や
静神社の社伝によれば、常陸の大甕山(現日立市大甕)を根拠地として、一時東国を支配し
ましたが、派遣された建葉槌命(たけはづちのみこと).によって服従したと伝えています。
鳥取市倭文の倭文(しとり)神社の主祭神「建葉槌命」は織物業守護神、また安房國へ移動後
は、「麻」の栽培開発神として崇められ、建葉槌命は豊玉彦を祖とする「阿波忌部」系の神と推
測され、ナガスネヒコを庇護することはあっても、服従させることなどあり得ません。
ナガスネヒコのまたの名に「天利劒(あめのとつるぎ)・岐神(くあとのかみ)・天津甕星
(あめつみかぼし)・天香々背男(あめのかがせお)神・天白神」などがあり、全国の神社で祀ら
れています。
天津甕星またの名天香々背男は『紀』の葦原中国平定に登場し、悪神として描かれています
が、若気の至りであった神武天皇への反乱はともかく、全国で信仰された神であった事実は、地
域社会に慕われる神であったと考えられます。
次回は「饒速日命(にぎはやひのみこと)」です。