はじめに
明治39年(1906)第一次西園寺内閣の勅令により、内務大臣平田東助による神社合祀
政策が推し進められました。その目的は、神社の数を減らし、残った神社に経費を集中さ
せることで、一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて神社の継続的
経営を確立させることにありました。
しかし、此れは表向きで、江戸時代まで藩と旗本並びに崇敬者などによる神社の保護政
策が明治維新に伴う社会変革により行き詰まり、神社は自立することを求められました。
自立できない神社は政府の合祀政策の対象となり、その結果「鎮守の守や史跡の破壊」
を招きました。加えて「古代から祭祀していた神々」を失うことになりました。
此の合祀政策を最も推進したのが三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されました。
三重県の合祀政策を最も端的に顕わすのが松阪神社(松阪市殿町)です。創立年代は
不詳ですが、古来より「意悲(おい)神社」の名で祭祀されていました。その後、蒲生氏郷
により「正八幡社」を勧請し、明治41年明治政府により市内各所で祀られていた十七神社が
合祀され、現在の社名になりました
ご祭神は「宇迦之御魂神・誉田別命」とあります。
ご存知のように「宇迦之御魂神は稲荷神、誉田別命は八幡神」を指します。今では、本来の
ご祭神が全くわからなくなってしまったのです。
笑えないような話ですが、三重県と同様に合祀政策を推進したのが和歌山県で、多くの神社
を合祀し、新たに「稲金八天(いなきんはってん)神社」が創建されました。
「稲は稲荷神社・金は金刀比羅社・八は八幡社・天は天満宮」を顕わし、日本における最も
多い神社名称を一つにまとめたのです。
その後、同社は廃されました。
出典:Wikipedia(03/03/2021 10;30)
キーワード
○倭姫命とは
○倭姫命の巡行地
1.倭姫命とは
(1)『紀』
垂仁天皇と皇后日葉酢媛姫命には三男二女の御子
長男 五十瓊敷入彦命(いにしきにゅうひこのみこと)
次男 大足帯彦命(おおたらしひこのみこと)後の景行天皇
長女 大中姫命(おおなかひめのみこと)
次女 倭姫命(やまとひめのみこと)
三男 稚城瓊入彦命(わかきにゅうひこのみこと)
(2)「百嶋神社考古学」
「百嶋神社考古学」について聞き慣れない人は大勢いると思います。
私自身も九州旅行に行くまでは同じでした。
九州旅行では“ブログひぼろぎ逍遥”を主催する古川清久氏に招かれ、そこで見たのが故百嶋
氏が作成した「神々の系図-平成12年考」でした。
一目で「古代の神々が体系化している」のがわかりました。
勿論、細部まで理解できませんでしたが。
(故百嶋氏のプロフィール)
2015年に逝去された百嶋氏は、生前、全国の神社調査に50年以上の時間を費やし、
祀られていた神々を特定され、併せて多くの神々の淵源を訪ねて中近東・インド・中国・
東南アジアの国々に調査旅行を敢行され、特に中国へは70回以上に及んだと述べています。
これらの調査結果をもとに上記の国々の文献と照合し、神々を体系化されました。
この学問的アプローチを「神社考古学」と命名されました。
写真 故百嶋由一郎氏の講演会風景
本題に戻ります
故百嶋氏は、倭姫命について僅かに述べています。
鎌倉時代の建治・弘安(1275~1288年)に伊勢神宮外宮神官の渡会行忠の撰による 神道五部書
の一書『倭姫命世紀』に、「伊勢神宮並びに運営まで倭姫命は伊勢の支配者大若子命に依存してい
た。」とあります。
また伝説上の伊勢神宮初代大神主とも記しています。
加えて「倭姫命は川島大神の神霊に護られて、”瀧原宮”をお守りしています。」とも述べていま
す。
倭姫命を祀る神社をインターネットで検索するとありました。やはり、古川清久氏が探り当てて
いました。“ブログひぼろぎ逍遥 012日本で一つ主神倭姫命を祀る神社”に、以下の三社が掲載され
ていました。
○味島神社 佐賀県嬉野市塩田町谷所
ご祭神:倭姫命・大山祇神・菅原道真公
由緒によると「本社は鎮守社と称し、第54代仁明天皇承和年間(834年以降)の勧請にかかるとい
う。大正5年大山祇神社を合祀。翌6年天満神社と山神社を合祀とあり、本来は倭姫一坐を祀っていた
ようです。
○救世神社 佐賀県鹿島市三河内甲
ご祭神:倭姫命
味島神社から元和3年勧請とあります。
○斎宮神社 山口県岩国市周東町西長野
ご祭神:倭姫命
創建は大同二年(807年)伝承によると、「天照大神の鎮座地を求め、ようやく伊勢神宮(宮を鎮
座地」と定め、初代伊勢神宮の「斎王」になられたとあります。
大同2年の時点では、伊勢神宮(内宮)は創建されていません。
理由は後述しますが、この伝承は、『紀』の影響を受けていると考えます。
どうやら、倭姫命は肥前の国と関係があるようです。
故百嶋氏作成の「神々の系図-平成12年考」から倭姫命の家族構成は、父“梶取”椎根津彦別名
倭彦(やまとひこ)ですが、母の名は系図にみえません。
倭姫命の別名は黒砂(いさご)
実弟に真砂(まさご)こと市磯長尾市(しきながおち)があります。
同氏が残した「百嶋メモ」によると倭姫命の母について迷いがあり、二名の母親候補が記され
ていました。
・高木大神の裔百姫(ももひめ)こと宇佐津姫
・生目入彦(いくめにゅうひこ 後に藤原氏によって贈られた垂仁天皇)の妹乳津姫。
本稿では、乳津姫を採用しました。
父の椎根津彦は現在の大分市佐賀関町に支配地があったようです。
その痕跡を著すのが下記の神社です。
○椎根津彦神社 大分市佐賀関町神山
主祭神:椎根津彦命
同社の案内板由緒
「神武天皇は大歳甲寅(西暦紀元前667年)東遷の為、日向国を出発せられ、その年の
十月、当地速吸の瀨戸に於て、珍彦命(うずひこのみこと)の奉迎を受け、命に御名椎根津
彦を賜る。椎根津彦命は当地より水先案内人として皇軍に従軍し。勲功をたて建国の偉業
達成の為、盡瘁せられた。」とあります。
同社創祀について「皇紀二年春二月、天皇は論功行賞を行い、椎根津彦命は倭国造に任ぜ
られた。これを伝え聞いた当地の里人たちが、小祠を建てて、命を祀ったものがその創祀」と
伝えられています。
この由緒は、『紀』に寄り添い、椎根津彦を矮小化しています。
椎根津彦の父は、孝霊天皇の御代に、第二次九州王朝東遷御神霊護送船団で抜群の功績を残し、
「真の大物主と称えられた大山咋」で、母は頗る格式の高い鴨玉依姫、実兄は御間城入彦です。
その役割は「水先案内人ではなく“梶取”」です。
すなわち、「孝元天皇による第三次御神霊護送船団の梶取り」という重要な任務が命じられていた
と考えられます。
倭姫命も父の椎根津彦・弟の真砂(まさご)こと市磯長尾市(しきながおち)と共に護送船団に
参加していたと推測します。
注)黒砂(いさご)と真砂(まさご)
・黒砂
一般には、磁鉄鉱やイルメナイトなど。暗色の重鉱物や砂鉱床に用いる言葉。倭姫命は鴨玉依
姫の孫で、瀛氏金山彦の血脈の継承者と推測すると「黒砂」との関係が見いだせます。
・真砂
細かい砂。「まなご・いさご・ますなご」とも呼ばれています。
倭姫命を護ったとされる「川島大神」とは、誰を指すのでしょうか。
「神々の系図-平成12年考」によれば、父系の祖はスサノオ、母系の祖は櫛稲田姫です。
川島大神を祀る神社
・瀧原宮所管社川島社 三重県多気郡大紀町
ご祭神は不明としています。
・川島神社 名古屋市守山区川村町
ご祭神:イザナミ・大苫辺命・誉田別天皇・スサノオ・日本健命・大山津見神としています
が、本来の主祭神は女神の大苫辺命とも伝えられています。
大苫辺命は『紀』が記す大戸之道尊(=スサノオ)と一対の神で、スサノオの妃櫛稲田姫と考
えられます。したがって、川島大神は母系の祖櫛稲田姫が最も相応しいといえます。
表 「神々の系図-平成12年考」
2.倭姫命の巡行地
(1)『日本書紀』拙訳 垂仁天皇と皇后日葉酢媛姫命との御子
①本文
「垂仁天皇二十五年、皇后日葉酢媛姫命の次女倭姫命に命じて大神を鎮座させる場所を求めて
莵田から近江國に入り、東美濃を巡り、伊勢國に至ります。時に天照大神の教えに従い、その社を伊勢
國に立て給う。よって、斎宮を五十鈴の川上に興(た)て、是を磯宮と云う。」
疑問点は、「五十鈴川の川上に社を立て、是を斎宮磯宮(いそのみや)と云う」の記述です。
五十鈴川は伊勢市南部の神路山に源を発し、北流して伊勢市街を流れ、伊勢湾に注ぎます。
すなわち、五十鈴川の川上とは伊勢神宮内宮付近と推測されますが、「是を磯宮」と呼ぶに
は無理があります。
写真 五十鈴川の川上「内宮付近と島路山・神路山」
出典;Wikipedia(03/04/2023/11:00)
「磯宮」は常識的には五十鈴川河口部に立地していたと考えるのが無難です。
したがって、二見興玉(ふたみおきたま)神社が最も相応しい候補地と推測します。
その根拠の一つが「皇大神宮と二見興玉神社の神紋」が共通しているのです。
その神紋とは「花菱」です。
この事実は「皇大神宮と二見興玉神社」が祭祀する祖霊は共通していることを示しています。
○二見興玉(ふたみおきたま)神社 伊勢市二見町江 神紋「花菱」
ご祭神:猿田彦命・宇迦之御魂大神(=神大市姫)
同社の扁額には「八大龍王」と記されています。八大龍王とは海神豊玉彦の別名です。
同社は猿田彦大神を祀る「興玉神社」と宇迦之御魂大神を祀る三宮神社を合祀し、現在の
社名と為った経緯があります。
境内社 龍宮社
ご祭神:綿津見大神(=海神豊玉彦)
飛び地境内社 栄野神社
ご祭神:大若子命(=豊玉彦の父大幢主)
写真 二見興玉神社 境内社「龍神社」 出典:二見興玉神社公式HP
②一書 拙訳
「天皇、倭姫命を以て御杖とし、天照大神を奉り給う。是を以て倭姫命、天照大神を奉じて、磯城の
厳橿の元に鎮座し給う。その後、神の教えに従い、伊勢國の渡遇宮(わたらいみや)に遷座し給う。
この時に倭大神、穂積臣の遠祖大水口宿禰が神がかりして云うには“天照大神は悉く天原を治(し
ら)す、ところが皇御孫は、専ら葦原中國の八十神を祀るばかりで、我(大水口宿禰)は大地主神と
して治(しら)すのみである”と宣った。然るに先皇御間城天皇(崇神天皇)は天神地祇を敬うもの
の、根本の先祖霊を探らず、おろそかにしているので、命は短い。今汝御孫尊は、先皇の及ばないとこ
ろを悔い改め、斎(いつ)き祀れば命は長らえる。“と宣った。時に天皇(垂仁天皇)、この言葉を伝
え聞き、中臣連祖探湯主に占わせたところ、渟名城姫命が適任とされた。渟名城姫命が定めた穴磯邑
(あなしのむら)の大市(おち)の長岡岬で祀ったところ、神意は満たされず、たちまち渟名城姫命
は体調が優れなくなったので、是を以て大倭直(やまとのあたい)の祖長尾市宿禰(ながおちのすく
ね)に祀らせたところ、天皇の心は穏やかになった。」
疑問は、①の本文と②の一書では、天照大神の御鎮座地が異なります。
①の本文は
倭姫命が天照大神の鎮座地として、伊勢國の五十鈴川川上に社を立てたとしています。
②の一書は
「伊勢國の渡遇宮に遷座し給う。」すなわち、現在の「滝原宮」の地としています。
この矛盾した記述に挑んだのが筑紫申真(つくしのぶざね)氏です。
『アマテラスの誕生-講談社学術文庫 著者筑紫申真27~29p』
「伊勢國の五十鈴川川上では、ただ“滝祭のカミ”を丁重に祀られていたものの、このカミには
社殿もなければ、ほかに特別な施設もなかったのでした。もともとは、姿なき神社だったのです。
あるのはただまつりの場所だけだったのです。平安時代の初めに、伊勢神宮から朝廷に差し出し
た報告書『皇大神宮儀式帳』に滝祭神社とも瀧祭社とも書かれていますが、“大神宮の西の川辺
にあり。御殿なし。”と書かれております。
鎌倉時代の『坂十仏参詣記』は、このカミのことを、河の洲崎にある松杉などの一叢で、神体は
水底に御坐あり、すなわち竜宮である。」、と記しています。
注)坂十仏(生没年不詳)
Wikipediaによると、鎌倉時代後期から南北朝時代に医師・連歌師。後に光明天皇や室町幕府
の足利尊氏の侍医となった。
1342年(康永元年/興国三年)には、伊勢神宮で法楽歌を興し、『伊勢太神宮参詣記』を著し
た。
以上の検証から、「皇大神宮は14世紀半ば頃までは、“姿なき神社”」であり、『紀』の本文は
脚色された記事と考えられます。
加えて、②の一書の後半部分は、何を語っているのでしょうか。
藤原氏によって贈られた崇神天皇は、従来の大地主神を祀るのを改め、大地主神の一族である
大水口(おおみなくち)宿禰が糾弾した記事と推測されます。
それを物語るのが、故百嶋氏が講演会で、「御間城入彦ことツヌガアラシトは、大和國(やま
とのくに」で自称“神武天皇”と吹聴していた。」と述べています。
注)大水口宿禰
孝霊天皇の皇后細媛の実兄、宇麻志麻遅命 別名和知津見命。実質的な物部氏の祖。父は物部氏
の始祖彦火々出見命。
(2)「百嶋神社考古学」
故百嶋氏は、倭姫命の巡行経路について、全く言及していませんが、ゴールは「瀧原宮(現三
重県渡会郡大紀町(旧大宮町)滝原)」と述べています。
また、宮川の支流大内山川の上流とも述べています。
私も同氏と同様に神社伝承を中心に、倭姫命の巡行経路を推測したのが以下の経路です。
○倭姫命の出発点は、天理市新泉町の「大和神社」
○急峻な山々を避け、比較的緩やかな山地の奈良県山添村を経由して伊賀国へ。
その痕跡を残すのが以下の神社と推測します。
・伊賀国一ノ宮 敢國(あへくに)神社 伊賀市一ノ宮
主祭神:大彦命(おおひこのみこと) 孝元天皇の実弟で「四道将軍」
大彦命は、伊賀国まで倭姫命に同行していたと推測します。
伊賀国を支配していたと推測される阿閉氏は阿倍氏とも表記され、倭国王家・大幡主の二系
統に分類されます。おそらく、阿倍氏以前は大彦命の支配地が伊賀国で、同社に祭祀されたと
推測します。
・「元伊勢と呼ばれる“隠市守宮(なばりいちもりのみや)”」の後裔社
箕輪神社に合祀された三輪神社 三重県名張市箕輪仲村
同社も明治時代に合祀された神社で、本来のご祭神は不明のままです。
○伊賀国から伊勢国へ
その痕跡を残す神社
・魚海(うおみ)神社 三重県松阪市川島町
ご祭神:豊玉彦命・豊玉姫命・月讀荒魂命・天之忍穂耳命・須佐乃男命・大山津見尊
鎮座地の川島町は川島大神と関係があるかも知れません。
祭神「豊玉彦」は、『倭姫命世紀』では「乙若子命」として登場します。
同社と同名の松阪市魚見町の「魚見神社」には
「垂仁天皇の御代、倭姫命が天照大神を奉齋し、大神鎮座の地を探して、櫛田川を下っていた
とき、魚が自然に集まって御船に飛び込んできたのを見て、倭姫命は大いに喜び、此の地に魚見社
を創祀した。」という伝承が残っています。
・真名胡(まなご)神社 住所不明 おそらく松阪市内
ご祭神:真名胡神
明治時代の「神社合祀政策」によってわからなくなってしまった神社で、おそらく「魚見神社」
の近在に鎮座していたと推測します。
「真名胡とは真砂(まさご)の意で、真砂はまなご」とも呼ばれていますので、「真名胡神=倭姫命
の実弟市磯長尾市(しきながおち)」と推測されます。
・松阪神社 三重県松阪市殿町
同社は、「意悲(おい)神社の後裔社と云われています。
現在のご祭神:誉田別命・宇迦御魂神(うかのみたまかみ)
明治時代以前は、以下の神々が祀られていたという。
稚日女命(わかひるめのみこと =孝霊天皇の皇后細媛)
スサノオ系:須盞鳴尊・豊受大神
大山祇神系:大山祇神・大国主命
高木大神系:高木大神・𣑥幢千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
金山彦系:熊野久須美神(=伊弉冉尊)・火産霊・多岐都毘売命(=鴨玉依姫)
大幡主系:天御柱命・国御柱命・思兼命(=大幡主の別名)
事代主系:事代主の別名、蛭子命・少彦名命
『倭姫命世紀-飯高の高宮段』には、興味深い話があります。
「また、大若子命に“汝の国とは”と問うと、“百張蘇我の国、五百枝刺す竹田の国”と申しました。
そこで櫛を落し、その地を櫛田と名付け、櫛田社を定めました。(中略)その後、多気佐佐牟迤
宮(たけささむしみや)に滞在されたその時、竹の吉比古(えひこ)に“汝の国の名は”と問うと“百
張蘇我の国、五百枝刺す竹田国”と答え、櫛田・根椋(根倉)の神御田を奉った。」
以上の記事を検証してみましょう。
・飯高の高宮
飯野高宮神社(別名神山(こうやま)神社 松阪市山添町
ご祭神:猿田彦命・天細女命
櫛田川と祓川の分岐点北西に位置する神山の山麓に鎮座。
・百張(ももはる)、蘇我の国」
伊勢の国内に広がっている国。具体的には松阪市内を走る「月出の中央構造線」に沿う地域と推
測します。
蘇我の国とは、瀛氏(えいし)金山彦の後裔、蘇我氏の支配する地域と推測されます。
・櫛田社 松阪市櫛田町
ご祭神:大若子命・櫛玉姫命(=櫛稲田姫)・須佐乃男・天忍穂耳命・市杵島姫
佐賀市神埼町神埼の「櫛田宮」の分社といわれています。
なお、「櫛田」の地名由来は櫛を落としたのではなく、博多の櫛田神社由来と推測します。
・多気佐佐牟迤宮(たけささむしのみや)
現在の竹佐佐夫江神社 三重県多気郡明和町山大淀
主祭神:建速須佐乃男命
多気郡明和町は、スサノオの支配地と推測します。
・五百枝刺す竹田国
「竹は多気」の意で、現在の三重県多気郡明和町周辺と推測されます。
○ゴールの地 現度会郡大紀町(元大宮町)へ
・多岐原神社 三重県渡会郡大紀町三瀬川字久保海道
ご祭神:真名胡神(倭姫命の実弟、真砂こと市磯長尾市)
伝承によれば、倭姫命が急流を渡れず困っていたところを真名胡神が助けたという。
倭姫命の使命、「九州王朝による第三次御神霊東遷の重大事業である“天照大神のご鎮座地”
を定める」ため、実弟の真砂こと市磯長尾市は、大和神社から瀧原宮まで姉の倭姫命に終始、
付き添っていたと推測します。
また、倭姫命一行が名張川・櫛田川・大内山川を渡河するための御船を常時携行していたと推測し
ます。
おそらく、同社は当初小さな祠が立てられ、後に神社として祀られたと推測します。
・瀧原宮 三重県度会郡大紀町(元大宮町)滝原
ご祭神:天照大御神魂
『倭姫命世紀』は、同社のご祭神を「水戸神(みなとのかみ)、別名速秋津日子神、滝原竝宮の
ご祭神を妻神速秋津比賣神と記述しています。
注)「水戸神、別名速秋津日子神」
『倭姫命世紀』では、乙若子命とも記され、大若子命(=大幡主)の嫡男説。豊玉彦の「妻神
速秋津比賣神」は、豊玉彦の妃豊秋津比賣と考えられます。
現在、同社の三所管社のご祭神はわからなくなっているので検証してみましょう。
- 若宮神社
同社には、ご神体を入れる御船代を納める御船倉があります。
一般的には「若宮」を仁徳天皇とするのが通説です。
しかし、伊勢の国は「大若子命こと大幡主が支配者であり、若宮はその子乙若子命(小若子
命とも表記)こと豊玉彦」とするのが、無難と考えます。
- 長由介(ながゆけ)神社
本来、同社は豊受神社が長由介神社に誤伝されたと推測しています。
したがって、本来のご祭神は「外宮様こと豊受大神(=天細女命)」と推測しています。
- 川島神社
現在、同社の建物はなく長由介神社に同居しています。
本来のご祭神は「川島大神こと櫛稲田姫」と考えています。
写真 多岐原神社 由緒案内板「倭姫命」 出典:瀧原宮案内板
写真 多岐原神社近くの「瀧原浅間山(別名祝詞山)標高733㍍」
出典:ブログ観光旅行はベストミックス“三瀬の渡しと多岐原神社”
見事な円錐形の“山容”に驚きます。
写真 滝原宮の洗い場 出典:Wikipedia(10/04/2023 13:20)
おわりに
倭姫命は「瀧原宮の斎宮」として一生を終えたようです。
彼女は、自然豊かな環境で「斎宮」として日々を過ごしていたようです。
瀧原宮に仕えていた人々はおそらく二十人を越え、また里人達も彼女を敬愛し、決して一人寂しい生活をしていたのではなく、心豊かな生活を送っていたと考えます。
そのような生活は永久ではありません。
彼女も人並みに年齢を重ね、「瀧原宮」で一生を終えたようです。
次回は第十話「大日孁貴」です。