はじめに
諸事情で松山市に五年間居住していた折に“ブログ愛姫伝”を偶然閲覧し、最も印象に残ったのが「瀬織津姫」でした。
当時、大山祇神社が祀る神々を研究する過程で「瀬織津姫」が祀られていることを発見し、「瀬織津姫」を本格的に研究する動機が生まれました。
同姫に関する書籍をインターネットで検索したところ、『円空と瀬織津姫(上)・(下)-故菊池展明著
風琳堂』がヒットしました。
早速、同書を購入するため、風琳堂へ電話をかけました。
電話口に出られたのが風琳堂主人で、「大変難しい本ですがよろしいでしょうか。」との回答がありました。
過去に電話で幾度も書籍注文をしましたが、このような良心的な回答に遭遇したのは初めての経験で正直、驚きました。
同書の内容は、著者菊池展明氏が瀬織津姫を祀る各地の神社を調査歴訪し、その過程で円空が全国各地の寺社に自らが彫った「十一面観世音菩薩像」と遭遇し、同像のモデルが「瀬織津姫」ではないかとの推論を詳細に述べています。
同書を読み進めていくと、残念なことに多くの神々と瀬織津姫との関わりが理解でき無かったの
で、『古事記・日本書紀』が記す古代の神々を研究する必要性が生まれました。
古代の神々を研究するため、吉野裕子氏をはじめ数十冊の本を読みましたが、古代の神々を体系化する書籍には巡り会いませんでした。
そこで、本を出版していない民間研究家をインターネットで検索した結果、百嶋由一郎氏の存在を知りました。
しかし、同氏に接触する機会はとうとうありませんでした。
空しく八年が経過しましたが、故百嶋由一郎氏が提唱した「百嶋神社考古学」を継承する古川清久氏の存在を知り、九州に同氏を訪ね、故百嶋由一郎氏の研究業績を教えていただきました。
二年に亘って、その研究業績を精査したところ、ようやく「瀬織津姫と古代の神々の関わり」が朧気ながら理解できるようになり、十年の時を経て「謎の女神瀬織津姫」に近づくことが出来まし
た。
菊池展明氏は惜しくも2014年8月23日に永眠されましたが、菊池展明氏の遺志を継がれた風琳堂主
人がブログを運営されていますので、興味のある方は同ブログを閲覧ください。
また故百嶋由一郎氏の「神社考古学」に興味のある方は古川清久氏が主催するブログ“ひぼろぎ逍遥”を閲覧いただければ幸いです。
キーワード
○癒やしの女神
○瀬織津姫とは
○瀬織津姫のご神格
○瀬織津姫の生涯
1.癒やしの女神
瀬織津姫に関するブログは、キャッチコピーに“ヒーリングスポットあるいはスピリチュアルスポット”として紹介しています。
瀬織津姫本人ではなく、同姫が祀られるロケーションが「心の癒やし」の対象になっています。
“ブログ愛姫伝”の主催者は十有余年にわたり、愛媛県内の神社を中心に瀬織津姫の足跡を丹念に辿り、「瀬織津姫を癒やしの女神」として取り上げています。
2.瀬織津姫とは
瀬織津姫を祭る神社は沖縄県を除き、全国に分布しています。「瀬織津姫神祭祀社全国分布図2008年5月現在、風琳堂」では、全国で454社となっていますが、私の調査では既に465社以上となっています。
これほど全国的に分布し、多くの神社に祭られているにも関わらず『古事記(以下、『記』と記す)』・『日本書紀(以下、『紀』と記す)』には全く記されていないのです。
正史の『日本書紀』と民間伝承にこれほどの乖離が生まれた理由があるはずです。
この謎に包まれた「女神瀬織津姫」について探求してまましょう。
(1)瀬織津姫の別名
① 向津姫
六甲比命(むかつひめ)大善神社 兵庫県神戸市灘区六甲山町
同社はかって廣田神社の「奥宮」とされ、同社を護る六甲比命講によると「六甲比命は六甲姫(むつがひめ)であり、撞賢木厳魂天疎向津姫(つくさかきいづくたまあまさかるむかつひめ)
は瀬織津姫」であるとしています。
すなわち、瀬織津姫の別名に「六甲姫・向津姫」が確認できます。
写真 六甲比命(むかつひめ)大善神社の磐座 出典:ブログ「ひぼろぎ逍遥」
② 櫛稲田姫(くしいなだひめ)
津上(つがみ)神社 島根県松江市島根町多古
ご祭神:瀬織津彦神・瀬織津姫神
伝承では夫婦一対の神で、夫神の瀬織津彦神とはどのような神でしょうか。
下記の「神々の系図ー平成12年考」をご覧ください。
故百嶋由一郎氏の講演録によると、「瀬織津姫神は櫛稲田姫の別名」としています。
櫛稲田姫は前夫スサノオの暴挙に嫌気が指し、豊玉彦(別名八大龍王・ヤタガラス)の元へ逃げ込み、名を瀬織津姫、夫神となった豊玉彦は瀬織津彦神に名を改めました。
写真 津上神社拝殿扁額 出典:ブログ「出雲大社の歩き方」
皇大神宮別宮「荒祭宮」
鎌倉時代に著された≪神道五部書≫に納められた『倭姫命世紀』に、次の記述があります。
「荒祭宮(荒魂を祭る宮)一座 皇太神宮(天照大御神)荒魂。伊奘那伎大神の生める神、名は八十枉津日神(やそまがつひのかみ)なり。一名瀬織津比咩神、是也。御形は鏡に坐す]
天照大神の荒魂とは、伊奘那伎が黄泉の国から帰還後、中つ瀬で清めていたところ、穢れから生まれた八十枉津日神(やそまがつひのかみ)亦の名を瀬織津比咩神であるとし、”禍津神(まがつかみ)”であるが故に鏡の中に封じ込められたとしています。
写真 皇大神宮別宮「荒祭宮」 出典:伊勢市観光協会
③ 玉柱屋姫神
伊雑宮(いざわのみや) 三重県志摩市磯部町
同社は。伊勢神宮内宮の下に位置づけられるのを嫌い、自社の記録や『先代旧事本紀大成経』に基づき、朝廷に訴えたことで有名な神社で、ご祭神とされる「玉柱屋姫神(たまはしらやひめがみ)は天照大神が郷に在る時の分身で、瀬織津姫神は天照大神が河に在る時の分身」と主張しています。
宗像大社
同社の社殿配置推定復元図によれば、向かって左に北崎明神社、右に下高宮が並び描かれています。
延宝四年(1676)作成の「宗像宮末社神名帳」によればご祭神は「祭神玉柱屋姫命(神)」と記されています。
この玉柱屋姫命は伊雑宮のご祭神と同じで瀬織津姫と考えられます。
④ 伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)
和銅六年(713年)第43代元明天皇の勅によって編纂された官撰地理誌『山城国風土記』逸文に「又曰、蓼倉里、三身社。称三身者、賀茂建角身命也、丹波伊可古夜日女也。玉依姫。(後略)」と記されています。
拙訳は「また曰く。蓼倉里(たでしなくらのさと)に三身社あり。三身とは、賀茂建角身命(かもたけづぬみのみこと)、丹波の伊可古夜日女、玉依姫命也。」
賀茂建角身命は豊玉彦、別名瀬織津彦命。丹波の伊可古夜日女は櫛稲田姫の別名瀬織津姫で、夫婦神の関係になります。
御子神は鴨玉依姫です。
三身社の後身は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下賀茂社)の境内社三井(みつい)神社です。
写真 賀茂御祖神社の境内社三井神社 出典:京都ガイド
図 故百嶋由一郎氏作成「神々の系図―平成12年考」
⑤ 弁財天・鈴鹿権現(祇園祭鈴鹿山のご神体)
いずれも仏教と習合し、本来の名は瀬織津姫と考えられます。
写真 祇園祭鈴鹿山の山鉾 出典:祇園祭山鉾連合会HP
ご神体は「瀬織津姫乃尊」
3.瀬織津姫のご神格
(1)水の神(水神)
多くのブログで取り上げられているのが水の神です。
Wikipediaによれば、「水神は、水(主に淡水)に関する神の総称で、農耕民族にとって水は最も重
要なものの一つで、水の状況によって収穫が左右されることから、日本において水神は“田の神”と結びついています。
また水源地に祀られる水神は「水の分配を掌る水分神(みまくりのかみ)は山の神と結びついています。
では、何故「水神は田の神と山の神に習合されたのでしょうか。」
この問いに対する答えは「南九州、特に鹿児島県に集中する“タノカンサー”を祀る石像”に関係があるかも知れません。
また筑後に集中する「田(てん)神社」との関係も窺えます。
故百嶋氏は講演会で“タノカンサー”を大幡主神と大山祇神との擬神体」と発表しています。
おそらく、「大幡主神を盟主とする稲作農業の田の神、大山祇神を盟主とする狩猟生活の山の神が対立すること無く、両神がお互いに手を携えて倭国を盛立てていく為の盟約を結び、その証(あかし)として“タンカンサー”という神を祀ったと推測します。
神は、本来姿が見えないのでその使い(神の使い)が人々の前に現われます。
「田の神の神使」に、
蛇(龍)・「河童」・「鯰」など
「山の神の神使」に
猿・猪・熊など
記紀神話に「河童・鯰」以外は取り上げられています。
「田の神」は、東北地方では「農神(のうがみ)」、近畿地方では「作り神」、但馬や因幡地方では「亥神(いのかみ)」と伝えられています。
写真 “タノカンサー”とされる石像 出典:宮崎県三股町観光HP「田の神サア100撰1」より手に飯げ(めしげ)「しゃもじや椀・スリコギを持ち、甑簀(シキ・餅米などを蒸す時に間に引く藁製の編み物)を被った「田の神(タノカンサー)様」と呼ばれる田の神像。
写真 「田の神 神使 河童」を祀る佐嘉神社境内社松原河童社(まつばらかそうしゃ)扁額
佐賀県佐賀市松原 出典:九州旅行ナビ
ご祭神:水神三神(水分神・弥都波能売・闇淤加美神)
写真 松原河童社 「木造の河童(兵主部さん) 出典:九州旅行ナビ
写真 豊玉姫神社の「白鯰像」 佐賀県嬉野市嬉野町大字下宿乙 出典:じゃらんネット
瀬織津姫が水神とされる重要な手がかりが『延喜式祝詞―大祓詞』に記述されています。
「佐久那太理に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。(後略)」
「佐久那太理とは、滝のような急激に崩れ落ちるさま」の意で「瀬」にかかる枕詞とされています。
瀬織津姫のご神格は「川のカミ」で、その支配する地域は「山間(やまあい)の上流から急激に平地へ流れ出る中流域から下流の河口部」までと考察されます。
古代においては「急流を滝」と呼んでいたようです。
(2)川のカミ・水戸カミ・滝祭りのカミ
学術的にも皇大神宮(通称伊勢神宮内宮)とアマテラスとの関係を詳細に記述された『アマテラス
の誕生 著者筑紫申真(ちくしのぶざね)講談社学術文庫 1973年没』から検証してみましょう。
・滝原宮のカミ(正式表記は瀧原宮) 三重県度会郡大紀町滝原
「いまも大宮町(現在の大紀町)にある滝原宮は、皇大神宮の別宮で遙宮(とおのみや)。
本宮に次ぐ格式の高い神社で、伊勢神宮のなかでも、内宮・外宮につづく第三位の実力をもって重要視された神社です。
ことに、その神社の社域の広大なことはおどろくべきで四十三町八反の鬱蒼たる森は、優に内宮・外宮に匹敵する偉容をそなえています。(中略)この滝原宮のカミは、正式にはアマテラスだとされていますけれども、実はこのカミは水戸神(みなとかみ)であるという、古くからのつたえがあるのです。水戸神とは、雨水をつかさどる“川のカミ”のことです。P22~23P」
・川のカミだった皇大神宮(P24)
「宇治(現在の伊勢市)は、もともと“川のカミ”をまつる祭場だったところなのです。そこでは、各地の豪族が、毎年定期的に“川のカミ”まつりをやっていました。滝祭りをしていたのです。滝原宮のカミも水戸のカミも、つまり“川のカミ”でした。(中略) 皇大神宮をおとずれる人は、五十鈴川の手洗い場で、まず手を洗ってから参拝するのがむかしからの習慣になっています。(中略)ここが、むかしの“川のカミ”祭の聖地だったのです。皇大神宮は、この五十鈴川の川のカミと、多気大神宮(滝原宮)という宮川のカミとが一緒にされてできあがったものなのです。」
・滝祭りのカミ(P27)
「五十鈴川の川のカミは、皇大神宮とよばれて、むかしはもちろんのこと、現在でも皇大神宮ではたいへん丁寧にまつりをしています。これが、皇大神宮のもともとのカミなのです。」
・皇大神宮のカミは“天つカミ”(p30)
「天つカミは天空に住んでいると信ぜられた霊魂で(中略)日のカミとも、月のカミとも、風の神
とも、雷のカミとも、雲のカミなどとも考えられていたのです。」
突如、故筑紫氏は「川のカミ・滝祭りのカミから大空の自然現象の神々」へと論理が一変します。
また、辻褄を合わせるために「天つカミが川に降臨したとして、川のカミとの整合性」を説きます。そして、「天つカミ=プレアマテラス→アマテラス」の図式を導入し、現代の皇大神宮のカミとの整合性をはかっています。
私見は、この論理の飛躍要因を故筑紫氏による忖度と考えています。
瀬織津姫のご神格の一つに「川のカミ・滝祭りのカミ」であったと考えています。
写真 大紀町の滝原宮を流れる大内山川 出典:HP観光三重
「禊ぎの場」かもしれません。

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(3)「禍津日神(悪神)」
皇大神宮内宮別宮の第一位とされる「荒祭宮」は、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参拝します。
神宮式年遷宮の際は、内宮別宮のうちでは荒祭宮だけが正宮と共に遷宮を行い、その格式の高さが際立ちます。
ご祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてるにますすめらおおみかみあらみたま)とされています。
『倭姫命世紀・中臣祓え訓解・天照坐伊勢二所御鎮座次第記・伊勢二所皇大神宮御鎮座伝記』は、「荒祭宮一座[皇太神宮荒魂(天照大神の荒御魂)伊奘那岐命が生んだ神、名は八十枉津日神也、
一名瀬織津比咩神是也、御形は鏡に坐す」と記されています。
『紀』では、八十枉津日神を伊奘那岐命が禊を行い、黄泉の穢れから生まれた神としています。
齋部氏の祝詞『御門祭』では、禍津日神は宮廷の外にいる荒神で、悪事(まがごと)を司る神としています。
私見は「荒御魂を荒ぶる神・あるいは悪事(まがごと)を司る神ではなく、畏れ多い神」と認識
しています。
その証左が、皇大神宮内宮別宮の第一位とされる「荒祭宮」への皇室の処遇だと考えられます。
(4)禊神・祓戸大神
祝詞『中臣大祓詞』に登場する祓戸四神の一座で、早川の瀬に坐す神で、穢れを大海原に祓い出すご神格」を持ちます。
大津市大石中町の『佐久奈度神社』は、「中臣大祓詞創始の社」として知られ、主祭神として「瀬織津姫尊、速秋津姫尊、気吹戸主神、速佐須良姫尊」を祀っていますが、『近江風土記逸文』によれば、「八張口の神の社。即ち伊勢の佐久那太理の神を忌みて、瀬織津比咩を祭れり」とあり、「八張口の神の社」は、由諸が記すように佐久名度神社のことで、本来は瀬織津姫神一座が祭神であったと考えられます。
表 「祓戸四神」の関係
神名 | 関係 | 別名など |
気吹戸主神 | 父 | 金山彦・國常立尊 |
瀬織津姫尊 | 本人 | 母埴安姫、別名櫛稲田姫 |
速秋津姫尊 | 豊玉彦の正夫人 | 別名豊秋津姫・宇奈伎姫 |
速佐須良姫尊 | 瀬織津姫の御子 | 本名鴨玉依姫 |
(5)月の神、蚕の神、機織りの神
大分県中津市『闇無浜(くらなしはま)神社』
主祭神:豊日別(とよひわけ)神 別名豊玉彦・瀬織津姫神
由緒は月の神、養蚕の神、機織りの神、雨を司る神とされていますが、『豊日別宮伝記』では、瀬織津姫の神徳・託宣譚が満載され、「日輪の像を戴く神女」として描かれています。
すなわち、瀬織津姫は多様なご神格を持つ女神だといえます。
日本列島は蚕の餌となる桑の生育に恵まれた地が多く、蚕が紡ぎ出す糸は機織り女によって絹織物が生産されました。
したがって、瀬織津姫は日本各地に産業革命をもたらしたのかもしれません。
写真 「闇無濱神社」 出典:ブログ「豊の散歩道~豊国を歩く」
(6)山の神
岩手県遠野市附馬牛『早池峰神社』 主祭神は「瀬織津姫神」
同社は、早池峰の山霊を祭り、旧暦6月18日近くの滝川に御輿を渡して、川の水を濯ぐ祭事
は珍しく古代からの伝統行事です。
写真 早池峰神社例大祭・宵宮 出典:公式遠野市観光協会
(7)龍神・滝の神
香川県観音寺市『滝宮神社』
主祭神:瀬織津姫命、素戔鳴命(元夫)
瀬織津姫のご神格を龍神・瀧の神との伝承を伝えています。
(8)橋の神
京都府宇治市宇治蓮華町 橋姫神社
ご祭神:橋姫(瀬織津姫神)、住吉明神
「大化二年、宇治橋が架けられた際に、上流の櫻谷と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まり。」という由諸が伝えられています。
その後、夫に捨てられた女性が宇治川に百日間身を浸し、生きながらにして鬼となり、男を呪い殺したという伝説により、今は縁切りの御利益が知られ、ご祭神の苦しみや悪縁を川に流しこむというご神徳も手伝い、縁切りの信仰が起こったとも云われています。
(9)天照大神の荒魂。
・「廣田神社」 西宮市大社町
主祭神:天照大神荒魂(亦の名橦賢木厳之御魂天疎向津媛命)
戦前は、橦賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこ
と)ではなく、瀬織津比売神と記されていました。
現在、同神社の由緒には「軍船の先峰となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天
照大神荒御魂」と記されています。
・「御霊神社」 大阪市中央区淡路町
主祭神:天照大神荒魂(瀬織津比売神)
・「瀧原竝宮」 三重県多気郡大紀町瀧原
主祭神:天照大神荒魂(瀬織津比売神)」
その他、愛媛県内で天照大神の荒魂を祭る神社として、伊曾乃神社、荒魂神社 があります。
(10)その他
・桜の神
・オシラ神(オシラサマ)・ザシキワラシと習合する神。
・天白神など。
以上が瀬織津姫の神格ですが、国土開拓の神格はみられません。
瀬織津姫を祭る愛媛県内の神社は、大山祇神社の境内社である十七社神社を含め12社があり、代表
的な神社を紹介すると、
・大山祇神社 境内社十七社神社
右から11番目が「早瀬神社」
ご祭神:瀬織津姫神
出典:「伊豫国越智郡宮浦村大山積神社明細帳」
・潮富貴神社 今治市大浜町ノッコ 大浜八幡神社境内社)
ご祭神:瀬織津姫、大宮売神
同社は、長い間祓戸の神として瀬織津姫を祭りながらも神社名を祓戸神社とせず、『大祓詞』に
登場する四柱の神のうち瀬織津姫と大宮売神(おおみやめのかみ)を祭る珍しい神社です。
注:大宮売神
『記紀』には登場しない神。『古語拾遺(807年)』では、天の岩戸から出てきた天照大神が移り住む宮殿に仕えた神で、天皇の宮殿に鎮座して、出入りの者を監視し、悪霊の侵入を防いで親王や諸臣たちが過ちを犯すことなく安らかに仕えるように見守る神。
故百嶋氏は、大宮売神を豊玉姫の別名としています。
4.瀬織津姫の生涯
(1)生い立ち
故百嶋由一郎氏作成の「神々の体系-平成12年考」によると、瀬織津姫の父は瀛(いん)氏統領金山彦(『記紀』が記すカグツチの神)、母は白族統領大幡主(『記紀』が記すカミムスヒの神)の妹埴安姫で、西暦146年頃に誕生し、櫛稲田姫と命名されました。
生誕地は不明ですが、現在の福岡県西部地区と推測します。
両親は古代豪族の中でもナンバーワン・ナンバーツーの地位を占め、日本列島の各地に、神社
の主祭神として祀られています。
この高貴な血筋をひく櫛稲田姫の最初の夫は昔氏統領スサノオです。
(2)スサノオとの結婚経緯
故百嶋氏の講演録によると、金山彦と月読命(つきよみのみこと 後に大山祇命と改名)は日本列島各地で鉱山開発を巡って、いわゆる「百年戦争」の闘いを繰り広げていました。
この百年戦争を調停したのが昔(そく)氏統領スサノオでした。昔氏は倭国王に準ずる高貴な血筋を持ち、調停役として最も適任な人物で、金山彦と月読命は調停を受け入れ、ここに百年戦争は終結しました。
スサノオは調停の報酬として「金山彦と月読命の娘」を要求します。
やむなく、金山彦は櫛稲田姫、月読命は神大市姫(かみおちひめ)をスサノオに差し出しました。
以上の経緯を『記紀』は「八岐大蛇神話」として創作します。
配役はつぎのとおりです。
・八岐大蛇・・・・月読命
・アシナヅチ・テナヅチ夫婦・・・・金山彦・埴安姫夫婦
・スサノオ・・・・八岐大蛇成敗
スサノオとの間に誕生したのが、長髄彦と瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)、兄妹です。
兄の長髄彦は『記紀』が記すように、反乱軍として神武天皇軍に闘いを挑みましたが、戦力差から不利に終始し、終には終戦の調停を受け入れ、一命は豊玉彦等の有力豪族の助命嘆願により助命されました。
妹の瀛津世襲足姫はその名が示すように瀛(いん)氏の血筋を継承し、倭国の忠臣として一生を尽くします。
(3)スサノオと暮らした地
その痕跡を示すのが、下記の神社です。
・八重垣神社 島根県松江市須草町
「スサノオと櫛稲田姫夫婦の宮」
ご祭神:素戔嗚尊・櫛稲田姫命
「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」
写真 八重垣神社 出典:同社HP
・広峯神社 兵庫県姫路市広嶺山 出典:同社HP
ご祭神:(正殿)素戔嗚尊・五十猛命(いかたけるのみこと)(左殿)奇稲田姫尊・足摩乳命
(金山彦)・手摩乳命(=埴安姫)(右殿)宗像三女神・天忍穂耳命・天穂日命
写真 広峯神社本殿表側 出典:同社公式HP
スサノオと櫛稲田姫は、「出雲と播磨」で暮らしていたようです。
しかし、二人の新婚生活は播磨で破綻しました。
原因は、スサノオの野心による暴挙です。
(4)瀬織津姫のその後
スサノオの暴挙に嫌気がさした櫛稲田姫は、山代の豊玉彦の元に隠れます。
いつしか豊玉彦と夫婦となり、名を瀬織津姫に改めます。
二人の間に誕生したのが「鴨玉依姫」です。
豊玉彦は父大幡主の支配地である伊勢国へ移動します。
その後、九州王朝の命により、豊玉彦は「東国支配安定化」のため、将軍大国主・饒速日命(にぎはやひのみこと 後の経津主命)と多くの軍勢を引き連れ、伊勢から東国に向かいます。
任務の困難性から、瀬織津姫は豊玉彦と別行動をとり、伊勢から船で駿河国へ向かいます。
季節風に強く、穏やかな水域である御前崎港に到着しました。
その痕跡を示すのが
・池宮神社 静岡県御前崎市佐倉
ご祭神:瀬織津比咩命
写真 池宮神社「秋の神事お棺納め」出典:御前崎市公式HP 県登録無形文化財
おそらく、当地で病没した従僕を丁寧に弔った儀式が記憶化されたのかも知れません。
御前崎で十分休息し、現在の静岡市へ向かいます。
その痕跡を示すのが以下の神社です
・伊勢神明社境内社 瀬織津姫神社 静岡市駿河区小鹿町
主祭神:瀬織津姫命
水神として祀られたようです。
・瀬織戸神社 静岡市清水区折戸
主祭神;瀬織津姫命
神護景雲元年(767年)建立。地元では、別名「辨天様」とも呼ばれ、水難・豊漁・招福祈願の神として崇拝されています。
おそらく、瀬織津姫は毎日のように霊峰富士山を仰ぎ見ていたと推測します。
写真 瀬織戸神社前の沢山の白石 出典:ブログ平松皮膚科医院
沢山の白石に注目してください。古代の神社前には必ず白石が敷き詰められていました。
静岡市にしばらく滞在した後、瀬織津姫は伊豆に向かいます。
その痕跡を示すのが、下記の神社です。
・瀧川神社 静岡県三島市川原ヶ谷
主祭神:瀬織津姫命
写真 瀧川神社の瀧 出典:ブログ迸る水 日本の滝情報
瀬織津姫を祀る神社は、静岡県が32社と抜きん出ています。よほど住み心地が良かったのでしょう。
私も静岡勤務時代、毎週土曜日は「各駅停車の旅」に出かけ、大いに自然や神社巡りをしました。
おそらく、瀬織津姫は駿河・伊豆に三年以上滞在したと推測されます。
ようやく豊玉彦の「東国支配」が安定化し、瀬織津姫は相模国を経て武蔵国に向かいます。
その痕跡を示すのが小野神社です。ようやく夫婦は再会します。
・武蔵国一宮「小野神社」東京都多摩市一ノ宮
主祭神;天下春命(あめのしたはるのみこと)こと豊玉彦
配祀神:瀬織津姫命
写真 小野神社本殿 出典:大國魂神社HP
折角再会したのに、瀬織津姫は厳しい現実を突きつけられます。
自分の年齢よりも10歳以上若い妃が4人増えていたのです。
豊玉彦は決して好色漢ではありません。4人の若い妃を迎え入れたのは諸事情が存在したのです。
おそらく、瀬織津姫は自らの意思で身を引いたと推測されます。
武蔵国以外の東国では、豊玉彦と共に祀られていないのです。また東北も同様です。
瀬織津姫は、先祖霊を祭祀するため最期の地へ巡礼に旅立ちます。
最期の地は、瀬織津姫を祀る神社が36社挙げられる岩手県です。
表 豊玉彦の妃
名前 | 生年 | またの名など |
萬幡豊秋津姫 | AD146年 | 父高木大神 宇奈岐姫 |
瀬織津姫 | AD146年 | 父金山彦 櫛稲田姫 |
神大市姫 | AD148年 | 父大山祇 罔象女 |
市杵島姫 | AD159年 | 父スサノオ 瀛津島姫 |
木花佐久耶姫 | AD162年 | 父大山祇 前玉姫 |
武内足尼 | AD164年 | 父スサノオ 瀛津世襲足姫 |
天豊津姫 | AD165年 | 父天忍穂耳命 元懿徳天皇の皇后 杉山姫 |
注)生年は故百嶋氏の推定です。
おわりに
インターネット上では「歴史に封印された女神」というキャッチコピーが多く見られます。
では、誰の手によって封印されたのでしょうか。その点についての説明は未だなされていません。
解明する手がかりとなるかもしれないこぼれ話を紹介します。
大山祇神社の歴史に関する書『三島宮御鎮座本縁並びに宝基伝・後世記録の事』
宝暦四年(1754年)大祝越智安屋執筆
「四十二代文武天皇御宇、大宝元年(701年)辛丑年、小千玉澄(おちたまずみ)、勅命を奉り横殿宮を同島の乾の方辺磯(へつ)の浜に遷す。此所に悪しき神ありて災いをなす。これに依りて、玉澄、五龍王を南山の頂に鎮め坐(まつ)る。此の時、磯辺に大なる蛇(をろち)万物或るひは人を呑むあり。此の蛇、乾の方飛び去る。その飛び去る所を蛇島(よこしま)と云ふ。」
横殿宮に祀られた神(「蛇(をろち)を追放したのが文武天皇」とあります。
この蛇とは「龍神の使い」、すなわち「龍神こと瀬織津姫」の可能性が指摘できます。
その後、里人がこれを哀れみ、境内社「早瀬神社」のご祭神として復活しますが、いつの頃か(おそらく戦後、昭和20年以降?)不明ですが、「早瀬神社」は他の十六社と合祀され、「境内社十七社神社」の一社として存続しています。
また、瀬織津姫」を祀る神社は脈々と受け継がれ、多くの神社で祀られていることから、文武天皇による「神下ろし政策」は徹底できなかったようです。
早池峰山に向かって拝礼。