第百四十九話   「持統天皇」(1)

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写真  浄見原神社「舞殿」 出典:なら旅ネット〔奈良県観光公式サイト〕

吉野川右岸の断崖絶壁に造営された「舞殿」

旧暦1月14日に開催される「国栖奏」は有名です。

○和風諡号

○『日本書紀』は正史ではなかった

○持統天皇称制前紀と大津皇子の謀反

○持統天皇称制三年間は何を語っているのか。

○二十九回にも及ぶ吉野宮巡行記事

 

1.和風諡号

皆さんは持統天皇には二種類の和風諡号があるのをご存知ですか。

『日本書紀』は「高天原廣野姫(たかまのはらひろのひめ)天皇」

『続日本紀-大宝三年(703年)十二月十七日条』は「大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこ

あめのひろのひめのみこと)」

どちらが本当の和風諡号でしょうか。検証してみましょう。

『続日本紀-養老四年五月条(720年)』に

「これより先に一品の舎人親王は勅をうけて日本紀編纂に従って、この度それが完成し、紀(編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上した。」とあります。

完成した正史は『日本紀』で『日本書紀』ではありません。また系図一巻は『日本書紀』に添えられていません。

したがって、持統天皇の和風諡号は、時間軸で見ると「大倭根子天之広野日女尊」が本来の表記であったと考えられます。

大倭根子天之広野日女尊とは、大いなる倭の根本である天氏(あめし)の心の広い姫尊(ひめのみこと)」と解釈します。

文武天皇は持統天皇の和風諡号に「大いなる倭の正統天皇」であることを高らかに宣言したのでしょう。

『続日本紀(上)全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫』を引用しました。

 

2.『日本書紀』は正史ではなかった

舎人親王が奏上した書は『日本紀三十巻と系図一巻』で、『日本書紀』とは記していないのです。また系図一巻も伝世されていません。

後世の為政者にとって、「系図一巻」はどうしても隠さなければならない事情があったのでしょう。

また「日本紀三十巻」も同様に見直され、加筆修正後『日本書紀三十巻』として今日まで伝世したと考えられます。

「寺院の縁起」などに『日本紀』の記述が散見されていることから『日本紀三十巻』は、一定期間流通していたのかもしれません。

民間歴史研究家佃収氏は『早わかり「日本通史」概要編228~229P』に

『万葉集』に『日本紀』からの引用を指摘しています。

■白波の 浜松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

日本紀に云う、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国に幸いすなり。

『万葉集』(巻一)「34番」

■吾が妹子を いざ見山の 高見かも 日本(やまと)の見えぬ 国遠みかも

右、日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰春三月 浄広肆広瀬王等を以て留守官

『万葉集(巻一)「44番」

また、『日本書紀』の成立を775~791年 光仁天皇(在位770~780年)の時代に作られていると

指摘しています。

 

.持統称制前紀と大津皇子の謀反

日本書紀によると、天武十五年九月九日に、天武天皇薨去。十月二日「大津王の謀反が発覚。」とあります。

「称制」とは、後継者として正規の手続きを経ないで「代行天皇」として権威を振るった時期と考えられます。有り体に言えば日本書紀編纂者による意図的な造語でしょう。

大津皇子は天武天皇薨去後、一月もたたないうちに謀反を計画した理由は奈辺にあったのでしょうか。

日本書紀を読む限り、称制時代の鸕良野皇太后には目立った政治的実績に関する記述はありませんが、唯一の事件が大津皇子の謀反です。

大津皇子の母は、鸕良野皇太后の実姉の大田皇女ですが、おしいことに早世しています。

大津皇子は心が広く温厚で詩賦に優れた才能を持っていたと、日本書紀は記述しています。

おそらく、大津皇子の周囲には多くの文化人が「文化サロン」を形成していたと推測され、謀反とは真逆の人物です。

このような人物が謀反を起こすとは考えられません。

異母弟の川島皇子の密告により、事件は発覚します。

大津皇子は自ら命を絶ち、連座した直広肆八口朝臣音橿・小山下壱岐連博徳等34人は捕らえられますが、直広肆八口朝臣音橿の流罪以外は後に許されます。

密告した川島皇子・壱岐連博徳は文武天皇の御代では共に出世します。

私見は、大津皇子が謀反を起こすとはどうしても思えないのです。

日本書紀は草壁皇子を大津皇子より一歳年長であることをわざわざ記述している点が不思議です。

日本書紀は原則として、各皇子間の年齢差を記述していないのにも関わらず、草壁皇子と大津皇子のみ年齢差を例外的に記述しています。

大津皇子の母である大田皇女の履歴について日本書紀などから検証してみましょう。

父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘越智姫。 生年は皇極三年(644年)

斉明二年(656年)数え年13歳で大海人皇子に嫁ぐ。

斉明七年(661年)長女大伯(おおく)皇女を出産。

天智二年(663年)長男大津皇子を出産。

天智六年(667年)薨去。

薨去時、大伯皇女七歳、大津皇子は五歳でした。

朱鳥元年(686年)大津皇子謀反により自死。

他方、実妹の鸕野皇女の父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘越智姫。

生年は孝徳元年(645年)

斉明三年(657年)数え年13歳で大海人皇子に嫁ぐ。

天智二年(662年)長男草壁皇子を出産。

天武十五年(686年)天武天皇薨去

*私見は天武十四年(685年)に薨去し、翌年高市皇子が天皇に即位。元号を「朱鳥」に改元したと推

測します。

 

持統称制三年(689年)草壁皇子が病により薨去。

持統四年(690年) 鸕野皇女は持統天皇として即位。

偶然ですが、大田・鸕野皇女共に、数え年18歳で初産を経験します。

私見は、大津皇子謀反事件を朱鳥元年(686年)に発生したと推測します。

したがって、大津皇子を自死に追い込んだのは高市天皇と推測します。

では、大津皇子を自死に追い込んだ理由はどのような経緯があったのでしょうか。

推測に過ぎませんが、高市天皇も他の天皇と同様に我が子長屋王を後継者に指名したかったよ

うです。

長屋王の生年は天武十三年(684年)、朱鳥元年当時は満二歳で、とても皇太子に指名できない事情

がありました。

高市天皇は将来を考え、草壁・大津皇子を後継者争いに加わらせないため、慎重に方策を巡らした

ようです。

草壁皇子の母鸕野讃良皇太后が存命で、父天武天皇の菩提を熱心に続けており、手を出すことはで

きません。

他方、大津皇子は後ろ盾となるべき母の大田皇女は早世しており、自死に追い込むのに支障が無い

ため速やかに実行したと推測します。

注)長屋王の生年

天武五年(676年)説もあります。

 

4.二十九回にも及ぶ「吉野への御幸」

不思議なことに、鸕良野皇太后の「吉野御幸」の目的について、日本書紀は一行も記述し

ていません。

目的は「天武天皇を祀る浄見原神社」への訪問と草壁皇子を護ることであったと考えられ

ます。

飛鳥浄見原宮から吉野宮までの距離は凡そ20㎞で、移動行程は3~7日ほどで、移動手段は徒歩では無く、馬が曳く二台の「車駕」で、一台は持統天皇が乗り込み、もう一台は荷物類を載せ、また、副馬も「車駕」に寄り添うように二頭の馬を用意していたと推測されます。

馬の速度は人の歩く速度「速歩(分速220㍍)」に調整されており、余裕のある行程と推測します。

写真 吉野宮跡(吉滝遺跡)  奈良県吉野郡吉野町宮滝

写真 浄見原神社「舞殿」  出典:なら旅ネット奈良県観光公式サイト

吉野川右岸の断崖絶壁に造営された「舞殿」

旧暦1月14日に開催され、12人の翁による「国栖奏」は有名です。

写真  藤原宮跡に咲くコスモス群   出典:かしはら探訪ナビ

藤原宮は「新益京」とも呼ばれます。由来は飛鳥浄見原宮よりも面積が広がった

ことに依ります。

私は社宅から直ぐ近くに藤原京があり、四季折々に見学しました。

 

次回は「持統天皇」(2)です。

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