第百四十七話  「高市天皇説」

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図 「老松白鳳図」 若冲動植綵絵 出典:日本の美術HP

○「九州年号」問題

○高市天皇実在説

 

 

 1.「九州年号」問題

『二中歴』等が記す「白雉~朱鳥年号」を検証してみましょう。

(1)白雉  九年間(652~660年)孝徳天皇八年~斉明天皇六年に相当

・白雉元年正月条(652年)

「孝徳天皇味経宮にいでまし、賀正禮を行う。」

味経宮(あじふのみや)は、第百三十六話で紹介した「飛鳥河邉行宮(あすかかわべかりみや)=味

経宮」と考えられます。

小郡市を流れる宝満川東岸に造営中の「飛鳥河邉行宮で賀正禮を実施すると共に白雉年号に改元し

た」と推測します。

改元理由は「新しい宮へ遷るに際し、瑞祥のシンボルである白雉と改元した」と考えられます。

・白雉九年(660)

「百済は唐・新羅連合軍に敗れ滅亡します。」

斉明天皇の心の動揺はピークに達します。

図 「中井藍江筆白稚図」   出典:文化遺産オンライン

(2)白鳳 二十三年間(661~683年) 斉明天皇七年~天武天皇十二年に相当

・斉明天皇七年五月九日条(661年)

「天皇、朝倉橘廣庭宮に遷る。」

おそらく遷都を機に「瑞祥のシンボル白鳳に改元した」と推測します。

斉明天皇薨去の翌年は、第百三十九話で紹介した「第三次百済救援派遣軍は唐・新羅連合軍によって

壊滅的な敗戦を喫し、降伏した年です。」

・斉明天皇七年六月条

「伊勢王薨去」

・斉明天皇秋七月二十四日条

「天皇朝倉宮で薨去」

・天智称制の期間が六年(662~667ねん)続きます。

・天智六年三月十九日条

「都を近江に遷す」

遷都しても、年号が改元されていないことに注目してください。

すなわち、「天智朝」は正統な王朝ではなく、年号を改元できなかったのです。

・天智七年六月条

「伊勢王とその弟王、日をおかず薨去」

・天智七年七月条

「栗前王を以て筑紫率に任命」

・天智八年春正月九日条、

「蘇我赤兄臣を以て筑紫率に任命」

・天智八年是歳条

「大唐、郭務倧等二千餘人を派遣」

唐は占領軍を派遣し、大宰府に「筑紫都督府」を設置します。

天智七年から天智八年まで九州王朝は大混乱し、その対応のため筑紫率を次々と任命した

のかもしれません。

おそらく、斉明天皇薨去後、九州王朝では天皇が即位できない状態が続いていたと推測します。

・天武元年夏五月三十日条

「郭務倧等二千餘人唐に帰国」

・天武元年七月条

「大友皇子 山前に隠れた後自死。ここに近江朝滅亡」

・天武元年是歳条

「宮室を岡本宮の南に造営し、飛鳥浄御原宮に遷都」

天武天皇は遷都を機に「白鳳年号」を改元していません。

すなわち、正統な王朝としては認知されていなかったようです。

 

図 「老松白鳳図」 若冲動植綵絵 出典:日本の美術HP

(3)朱雀 二年間(684~685年)

・天武十二年春正月二日条(682年)

「筑紫大宰丹比眞人嶋等、三本足の雀を献上」

丹比眞人嶋とは、どのような人物だったのでしょうか。

『新撰姓氏録』によれば、宣化天皇の末裔とありますが、出自についてはよくわかりません。

「筑紫大宰丹比眞人嶋」という表記は日本書紀編纂者の潤色と推測されます。その証左が次の

記事です。

眞人の姓は、「天武十三年冬十月一日条」で“八色の姓”を新設したとあり、「天武十二年春正

月二日条」と矛盾します。

丹比嶋(たじひのしま)は天武政権の重要な家臣と考えられますので、筑紫大宰に任命される

はずがありません。

では、何故筑紫へ行っていたのでしょう。

答えは「九州王朝との禅譲交渉」しか考えられません。

翌年、九州王朝は最後の年号「朱雀」に改元します。

「朱雀」年号は二年間で終わりを告げます。

『続日本紀-神亀元年(724)冬十月条』

「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして詳しくは不明」とあります。

それもそのはずです。「白鳳・朱雀年号」は九州王朝倭国の年号であったことを如実に示してい

ます。

図 平安神宮の「四神相応」のご手印  出典:平安神宮公式HP

中央下が「朱雀」

 

(4)朱鳥 九年間(686~694年)

日本書紀に記述はありませんが、凡そ二年間に亘る「禅譲交渉」が決着し、西暦686年「日本

国」が誕生し、「朱鳥元年」に改元します。

その時の天皇は持統天皇ではなく、高市天皇であったと考えています。

 

2.高市天皇実在説

私たちの調査グループでは、「高市天皇実在説」が有力です。

いずれも状況証拠で決め手はありませんが、有力とした根拠は

(1)昭和61年~平成元年にかけての長屋王宅跡の発掘調査で発見された木簡

長屋親王宮鮑大贄十編」

親王とは、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号とされています。女子

は「内親王」と呼ばれていました。

したがって、長屋王が親王であるならば、父の高市皇子は高市天皇であった可能性が考えられます。

現在は、天皇の嫡出の男子(皇子)および天皇の嫡男系嫡出の男子(嫡出子である皇子から生まれた嫡出

子の皇孫)である皇族を親王という。 皇室典範第八条

〔参考〕日本の皇室における現在の親王

皇位継承順位
秋篠宮文仁親王 第一位
悠仁親王 第二位
常陸美宮正仁親王 第三位

 

(2)『懐風藻―葛野王段』

高市皇子薨じて後、皇太后・王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てんことを謀る。

群臣各々私好を挟んで衆議紛糾たり。(葛野)王子奏して曰く。

「我国家為法 神代以来 子孫相承 以襲天位 若兄弟相及 則乱従此興仰論天心誰能敢測 然以人

事推之 聖嗣自然定矣 此外誰敢間然乎」

拙訳は

「我が国家の法は神代以来、子孫が代々相続し、以て天位を世襲する。若し兄弟が衝突すれば則ち乱が

此より興る。そもそも天心を論ずれば、誰か敢えて測りあたわん。然るに人事を以て此を推せば、聖

嗣は自ずと定められる。この道理を誰が敢えて異を唱えるものか。」

葛野王(かどのおう)の発言は、日本書紀には記述されていません。

葛野王は大友皇子と十市皇女(天武天皇の第一皇女)の皇子です。

私が疑問とした点は次の二点です。

  • 高市皇子薨去後「日嗣会議」をする理由

私のような凡人は、「高市天皇薨去による日嗣会議」としか考えられません。

  • 皇太后とは誰か

通説は持統天皇としていますが、腑に落ちません。

現代でも夫が死ねば、相続会議に妻が参加するのは当然です。

したがって、日嗣会議に参加したのは高市天皇の皇后と考えられます。高市天皇薨去後、

皇后は皇太后と名乗りを替えます。

日本書紀が記す高市皇子の正妃は御名部皇女とあり、御名部皇女が高市天皇の皇后と考えら

れます。

御名部皇女の父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘姪姫、御子は長屋王のみです。

(3)「朱鳥年号」

日本書紀では、朱鳥元年が天武15年、最後の朱鳥九年は持統八年に相応します。

私見は以下のように推測します。

  • 天武天皇の薨去年は日本書紀が記す天武十五年ではなく、天武十四年。
  • 朱鳥元年は高市天皇即位による「改元」
  • 高市天皇の薨去年は持統八年
  • 日本書紀は高市皇子が天皇に即位したことを徹底的に秘しています。

 

次回は番外編「高松塚古墳」です。

 

 

 

 

 

 

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