第九十九話  「清寧天皇」(1)

上記写真 筑波山神社「御座替祭(おざがわりさい)」

出典:Mont tsukubai

「神様がお着替えされる祭」です。残念ながら、一般の方は見学できません。

先頭に立つのが「猿田彦」です。

○第二次九州王朝確立前の政治状況

○白髪武廣國稚日本根子の父親は誰か。

清寧天皇の母葛城韓媛とは

○偉大な先帝の崩御

○星川皇子の反乱

清寧天皇を祀る神社

 

1.第二次九州王朝確立前の政治状況

   大草香皇子が宣言した「第二次九州王朝」は不安定な政治状況が長らく続きました。

その政治状況を作り出したのが、以下のグループの存在です。

(1)「代行天皇の系譜」

坂本命(天皇位を固辞)-諱雄朝津間稚子宿禰こと允恭天皇

(2)「別王の系譜」

贈崇神天皇―諱誉田別こと贈応神天皇-隼別皇子(下克上)-諱去来穂別こと履中天皇-諱

瑞歯別こと贈反正天皇-下克上による諱穴穂こと贈安康天皇)

注)下克上は下位の者が武力で上位の者を打ち倒すこと。

(3)「住吉中皇子の系譜」

摂津国難波に依拠した住吉仲皇子-雄略天皇

注)仁徳天皇の皇子住吉中皇子(すみのえなかおうじ)は摂津国難波で誕生しているので九州

王朝の後継者に即位することは出来ません。あくまで、九州王朝の近畿出張所の所長に過

ぎません

このグループを30年近く掛けて、第二次九州王朝は一つずつ潰しながら統一に成功します。

その間の歴代天皇名は『記紀』ともに、深く隠匿したので具体的にはわかりません。

2.白髪武廣國稚日本根子の父親は誰か。

清寧天皇の諱「白髪武廣國稚日本根子」の「稚日本根子(わかやまとねこ)」に注目します。

第一次九州王朝の

第三代孝霊天皇の諱は「大日本根子彦太瓊(おおやまとねこひこふとに)」

第四代孝元天皇の諱は「大日本根子彦國牽(おおやまとねこひこくにくる)」

第五代開化天皇の諱は「大日本根子彦大日日(おおやまとねこひこおおひび)」

いずれも「大日本根子」が共通項です。「稚、わかい」は、偉大な先帝の後継者であることを

示しています。

(1)清寧天皇の両親

①『古事記』

父雄略天皇 母都夫良意富美の娘韓比賣

何故か、母の氏族名が抜け落ちています。

②『日本書紀』

父雄略天皇 母葛城韓媛

父雄略天皇に「九州王朝の天皇名の象徴大日本根子」が冠されていません。皇子にあって、父

親の大泊瀬幼武天皇に「大日本根子」がないのは不思議です。

したがって、白髪武廣國稚日本根子天皇の父は大泊瀬幼武天皇ではありません。

『日本書紀―雄略天皇四年春二月条』に

「葛城山で狩猟していた際に、貴人一言主と遭遇し、地元の百姓が言うには”徳のある天皇“と

もうす。」

同記事は、「真の天皇は一言主」である可能性を示唆しています。

私見は、白髪武廣國稚日本根子天皇の父は“一言主”と推測します。

本来の諱は『紀』編纂者によって隠されていますが、分裂していた九州王朝を統一し、名実とも

に第二次九州王朝を確立した天皇と推測します。

「一言主」によって統一された九州王朝は、後継者白髪武廣國稚日本根子天皇の名にある「武廣

國」が示すように、武力を背景に支配地を広げた天皇として賞賛されたのでしょう。

3.清寧天皇の母葛城韓媛とは

何故か、『記紀』共に御子なしとしています。加えて皇后・妃の名もありません。

『日本書紀』は、「天皇に即位したとき、既に白髪だった。」とありますから、四十代で即位

されたと考えられます。

したがって、皇太子時代が二十年間ほどあり、その間には当然、妃や夫人があり、御子も生ま

れていたと推測します。

母親葛城韓媛(かつらぎのからひめ)について検証すると、

『日本書紀-雄略天皇紀』は、「安康天皇を暗殺した眉輪王が葛城圓大臣宅へ逃げ込み、葛城圓大臣

は苦しい立場に追い込まれます。窮余の策として娘の韓媛と七区を献上し、許しを乞いましたが、雄

略天皇は許さず、眉輪王と共に葛城圓大臣は焼き殺した。」とあります。

これが事実ならば、天皇に次ぐ権力者である大臣を簡単に焼き殺すことなど出来るでしょうか。本

来ならば、激しい戦闘が展開されても不思議ではありません。

その証拠に、葛城圓大臣宅を囲んだ戦闘集団の名もありません。

同記事に不審を抱くのは私だけでしょうか。

通説は葛城圓大臣を葛城襲津彦の子とし、葛城圓大臣の娘の名を「韓媛」としています。

韓媛の名の由来は「韓半島(からはんとう)出身」を示しています。

父の葛城圓大臣は、『日本書紀』に韓半島に赴任したとする記事はありません。

したがって、娘の「韓媛」の名は辻褄が合いません。

葛城圓大臣の父葛城襲津彦は『日本書紀』に任那への派遣記事があります。

既に紹介しましたが、私見は葛城襲津彦を九州王朝から派遣された任那王と推測しています。

韓媛は、任那で生まれたので「韓媛」と名付けられたと考えます。

その後、葛城襲津彦は九州王朝から呼び戻され、大臣に昇進し、名を葛城圓臣に改めたのではと

推測します。

以上の推測から、葛城襲津彦は時代的に武内宿禰の御子とは考えられません。

4.偉大な先帝の崩御

    偉大な先帝を仮に「葛城一言主」とします。

葛城一言主が西暦396年に崩御されたと推測すると、原則として「喪の期間」は3年です。

『日本書紀-清寧天皇即位前紀』を読むと、雄略天皇崩御の前年に皇太子に立ったとありま

すが、同記事は不審です。

何故ならば、原則として皇后の嫡子の成長を見届け、皇太子を指名します。

それが、王朝の安定を図るための「帝王学」です。

同記事は、いたずらに「皇后・妃・夫人らの確執・皇子達の軋轢」を助長し、また王朝の政

治体制の不安定化を招くことに繋がります。

5.星川皇子の反乱

大泊瀬天皇崩御後。夫人の吉備稚媛(きびのわかひめ)は、実子の星川皇子に「天皇位に就く

には大蔵の官を執れ」と囁きます。

これを知った兄磐城皇子は「遺命に従って、皇太子の白髪武廣國押稚日本根子を欺くなか

れ。」と感想を漏らします。

母の言を真に受けた星川皇子はどのような手段を用いたのかはわかりませんが、無事「大蔵の

官」に就任します。そして、権力を盾に官物を私的に流用します。

すなわち、九州王朝簒奪事件です。

この事態を憂えた「倭子連は八咫鏡を大伴(大屋)大連に奉り、私と紀郷は共に天朝に仕えるこ

とに耐えられません.今後は角國に隠棲することを聞き届けられんことをお願いします。」との

記事に繋がります。

すなわち、倭子連は大伴室屋大連に「九州王朝簒奪事件の粛正」を迫ったのです。

他方、星川皇子は命の危険を悟り、固く門を閉じます。

大伴室屋大連は東漢掬直(やまとのつかのあたい)に命じて兵を起こし、星川皇子の館を囲み

ます。

星川皇子の館には「母稚媛・異父兄の兄君(えきみ)」が逃げ込んでおり、共々焼き殺された

ので、ようやく九州王朝簒奪事件は終息し、無事白髪武廣國押稚日本根子は天皇として即位し、

大伴室屋大連は「倭子連から委託された八咫鏡」を清寧天皇に奉ります。

同記事は「喪中期間」に起きた事件かもしれません。

5.清寧天皇を祀る神社

白髪白山神社  埼玉県飯能市大字岩沢字宮の西

主祭神:白髪武広國押稚日本根子天皇・白山菊理姫命・韓姫命

創建は霊亀二年(716)

『続日本紀(上)全現代語訳宇治谷孟 講談社学術文庫』

「霊亀二年五月十六日 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国にいる高麗人(こ

まびと)1,799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。」との記事が見えます。

同社の所在地は旧武蔵国高麗郡です。

何故、高麗人は「白髪武広國押稚日本根子天皇」を主祭神として祀ったのでしょうか。

彼らの素性は高句麗の難民と考えられます。

では、いつ頃彼らは日本列島に渡来したのでしょうか。

①第一次

西暦371年 故国原王が百済との戦いで戦死。国の将来を憂えた高麗人は陸続とリマン海流を

南下し、対馬海流に乗って日本海側に漂着しました、

その後、安住の地を求めて彷徨し、多くが信濃・甲斐国などへ移住したと推測します。

その痕跡が長野県長野市松代町の「大室古墳群の積石塚古墳」です。

写真  176号墳の「積石塚古墳」 出典:Wikipedia(2021/12/14 11:40)

②第二次

西暦404年、高句麗軍は倭国軍に敗れ、新羅・百済に取り残された高麗人は捕虜となり、一

部は日本列島への移住を希望したと推測します。

清寧天皇は彼らを難民として扱い、関東地方へ移住させたと考えます。

彼らはこの温情を忘れないために、霊亀二年(716)「高麗郡設置」に伴い、清寧天皇を祀っ

たと推測します。

写真 白髪白山神社   出典:Wikipedia(21/12/14 11:40)

 

次回は「清寧天皇」(2)です。

 

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