第百九話  「武烈天皇」

 

和風諡号小泊瀬稚鷦鷯天皇とは 

大臣平群眞鳥臣の専横 

○百済記事 

○武烈王即位西暦500年は疑問  

 

 1.和風諡号小泊瀬稚鷦鷯天皇とは 

  (1)名の由来 

    仁徳天皇の和風諡号は「大鷦鷯(おおささぎ)天皇」です。 

    「鷦鷯」とは、小鳥の「ミソサザイ」を指します。 

    『日本書紀-雄略天皇五年春二月条』に 

    「葛城山で珍しい鳥が寄ってきた。大きさは雀の如し。尾長くして土に曳けり。鳴き声

   は“努力努力(ゆめゆめ)と聞こえる。」と逸話が記されています。 

    雄略天皇は九州王朝の偉大な大王「和風諡号大鷦鷯天皇」の直系であるならば、この小鳥の

   名を知らないはずがありません 

    他方、武烈天皇の和風諡号「小泊瀬鷦鷯天皇」は仁徳天皇と同様に「鷦鷯(ミソサザイ)」が

   冠されています。 

    おそらく、偉大な大王「仁徳天皇」に因んで名付けられたと推測します。 

   『日本書紀―武烈天皇紀』 

  「長じるに及び、罪人を罰し、ことの理非を明らかにするのを好み、法令に通じ、日が暮れるま

  で政務をこなされ無実の罪に落とされた人は助け、訴訟の審理は当を得ていました。」とあり

  ます。 

   仁徳天皇は「民政に心血を注ぎ、聖帝」と呼ばれました。武烈天皇も偉大な 大王に一歩でも

  近づくために政務に励んだと推測します。 

(2)二つの人格 

   『日本書紀』は太子時代を「即位前紀」としています。これには先例があります。「神功皇后

  の即位前紀」です。 

   第53・54話で紹介した開化天皇の事跡を神功皇后にすり替えたことを詳述しました。 

   太子時代に二つの人格が顕れています。  

   ①仕事熱心な政務・公平無私な審理 

   ②暴虐で暴君 

    和風諡号からは①の人格が顕れていますが、②の人格は全く別人と云わざるを得ません

  『日本書紀』の記述が真実を伝えているならば、怨嗟の声が沸き起こり、何らかの暴動・反乱が

 勃発してもおかしくはありません。 

  ところが、事件さえ起こっていません。不思議ですねー。 

  おそらく『日本書紀』編纂者は継体天皇に繋ぐための「ストーリー作り」をしたと推測します。 

   ①の人格が、本来の小泊瀬鷦鷯天皇と推測します。 

3武烈天皇を祀る神社 

    櫻田山(さくらださん神社 宮城県栗原市栗駒桜田山下 

      ご祭神:小長谷若雀命・誉田別命 

     由来は武烈天皇に左遷され、陸奥国に赴任した狩野掃部ノ介が、天皇を偲び、栗駒山の山

   間に神社を建立。その後、櫻田に遷座。 

      注)タレントの狩野英孝は同社の神職を務めています。 

写真 櫻田山神社 初詣の風景  出典:

 

 2.大臣平群眞鳥臣(へぐりのまとりおみ)の専横 

  (1)専横の内容 

    ・自らを日本の王としてふるまい、不謹慎にも太子の宮と同様の宮を構える 

    ・驕り高ぶり、政務を独占。 

    ・嫡男鮪(しび)は、太子が迎えようとした物部麁鹿火(ものべのあらかひ)大連の娘影姫

     を犯す。 

   大臣平群眞鳥臣は第八十八話で紹介した「武内宿禰系図」で「豊玉彦の王子武夷鳥命(たけひ

  などりのみこと)・天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする“鳥子大神(とりのこおおか

  み)の一族」の末裔と推測されます。 

   雄略天皇治世で大臣に就任したとあります。 

   影姫の父物部麁鹿火大連とありますが、麁鹿は蘇我」で、物部氏ではありません。 

  蘇我氏は瀛氏(いんし)金山彦の直系で、九州王朝を絶えず支えてきた忠臣中の忠臣で、大臣に

  相応しい家系です。 

  平群眞鳥は大臣ではなく蘇我氏が大臣であったと推測します。 

(2)太子の逆襲 

    平群鮪の行動に激怒した太子は大伴連金村に命じます。大伴連金村は数千の兵を率いて平群

  鮪宅を急襲し、鮪を乃楽山(ならやま)で討ち果たし、勢いを駆って平群眞鳥宅を囲み、火を放

  ちます。平群眞鳥大臣は自らの最期を知ります。 

(3)大伴連金村とは 

   大伴連金村を祀る神社が二社あります。 

   ①金村神社  奈良県葛城市大屋 

      安閑二年勧請とありますが、付近に居住した痕跡がなく、何故「大伴金村」を祀ってい

     るのか、いまも不明とあります。 

   ②金村神社  福岡県田川郡糸田町金村 

     ご祭神:罔象女神(みずはのめのかみ)・金山彦命・埴安彦命 

     『豊前誌』 「糸田村にあり。今昔説に大伴金村を祭る」とあります。 

     大伴金村の出身地は、どうやら遠賀川中流域の「筑豊地区」と推測されます。 

 

 3.百済記事 

   『日本書紀-武烈紀四年条』 

   「是歳、百済の末多王、無道にして百姓への暴虐が絶えず、終に国を棄てる人 民が現われ、嶋

   王が即位す。」 

  『百済新饌」は、

   「末多王、無道にして百姓に暴虐す。國人。共に国を棄てる.武寧 王立つ。諱は斯麻王。琨支

   王子の子なり。則ち末多王の異母兄なり。琨支、倭に 向かい、筑紫嶋で斯麻王が生まれる

  (みやこ)に至る前に嶋で生まれたのを 因み、嶋王と名付けられる。(中略)嶋王は蓋鹵王(こ

  うろおう)の子で、末多王 は琨支王の子なり。此を異母と云うは、未だ詳にできない。」 

   記事は混乱しています。時系列に記すと 

   (1)百済21代蓋鹵王(在位455~475年)高句麗の長寿王に捕らえられ、処刑されます。 

   (2)百済第22代文周王(在位475~477年)蓋鹵王(こうろおう)の長男。実力者の解仇(へ

     き)により暗殺され後継者の琨支王は次弟、倭国に定住し、嶋王が生まれます 

   (3)百済第23代三斤王(在位477~479年) 文周王の嫡男。僅か13歳で即位。 

   (4百済24代東城王(とうせいおう 在位479~501年別名末多王)倭国側では末多王と表

     記。Wikipediaによると、晩年は暗君となり、499年の大干ばつが起こり、国民は飢えに

     苦しんだが、民に国倉を開くことを拒み、漢山の民2千人が高句麗に逃亡。それにも拘わ

     らず、500年には王宮の東に臨流閣を築き、珍しい鳥を飼うなどの贅沢にふけり、諫言す

     る臣下を遠ざけた。最期は刺客に暗殺されます 

   (5)武寧王(在位501~523年)倭国在住時は嶋王と呼ばれた。父は蓋鹵王、兄は文周王。 

   どうやら、日本書紀』編纂者は、武烈天皇の二つの人格の一つである「暴虐で暴君」記事は、 百済第24代東城王をモチーフにしたようです。 

   写真 「ミサンザイ」  出典:目に見える鳥類図鑑 

   Wikipediaによると「日本では留鳥として、大隅諸島以北に周年終息している亜熱帯~

    高山帯で繁殖するとされているが、亜高山帯には属さない宮崎県の御池野鳥の森では繁殖

    期にも観察され、繁殖していると思われる。」とあります。 

    全長は約11㎝、翼開長役16㎝、体重約7~13㌘ 全身は茶褐色。 

    大阪府 絶滅危惧種Ⅱ 千葉県 要保護生物 

    東京都・愛知・長崎県 準絶滅危惧種に指定されています 

    古代の西欧各国では「鳥の王」とも呼ばれています。

      

図 武烈天皇出生候補地「泊瀬」

「初瀬川」佐賀市を流れる嘉瀬川水系の一級河川

 

 4.武烈王西暦500年即位は疑問 

    6世紀に入り、任那は新羅の圧力に対し、徐々に抗しきれない状況に陥っていたと考えられ

   ます。 

    任那陥落後は、その余勢を駆って新羅が北部九州へ攻め入ることも想定されていたのでしょ

   う。 

    その痕跡が防御施設としての「山城」・北部九州独特の「水城」の築城です。 

    『太宰府は日本の首都だった 内倉武久著 ミネルヴァ書房p186~p208』に詳しく記述さ

   れているので参考にしました。詳しくは同書をお読みください。 

(1)「山城」の築 

    一般的には「神籠石(こうごいし)式山城」と呼ばれています。 

     表 神籠石式山城 

    

名称  よみ  所在地 
おつぼ山神籠石    佐賀県武雄市橋町小野原 
帯隈山神籠石  おぶくまやま  佐賀市久保泉町川久保町 
女山神籠石  ぞやま  福岡県みやま市瀬高町大草字女山 
戸木神籠石  へき   
高良山神籠石  こうらさん  福岡県久留米市御井町高良山 
雷山神籠石  らいさん  福岡県糸島市雷山 
鹿毛馬神籠石  かけのうま  福岡県飯塚市鹿毛馬 
御所ヶ谷神籠石  ごしょがたに  福岡県行橋市津積・みやこ町 
把木神籠石  はき  福岡県朝倉市林田 
唐原神籠石  とうばる  福岡県筑上郡上毛野町下唐原 
阿志岐神籠石  あしき  福岡県筑筑紫野市阿志岐 
石城山神籠石  いわきさん  山口県光市石城 
鬼城山城(鬼ノ木)  おにのき(きのじょう)  岡山県総社市奥坂・穂坂 
大廻小廻山城  おおめぐり・こめぐり  岡山市草ヶ部 
永納山城  えいのうさんじょう  愛媛県西条市河原津 
讃岐城山城  さぬきやまのき  香川県坂出市西庄町・府中町 
播磨城山城  はりまきやまのき  兵庫県たつの市新宮町馬立 

  (2)「水城(みずき)」の築 

      目的は「一気に流して敵を撃退」 

    ①「大水城」 

       太宰府市と大野城市にまたがる最大の水城は総延長1.2㎞。東西2箇所に門。 

    ②「小水城」 

       春日市ほか4箇所 

  (1)・(2)より、倭国存亡の危機に武烈天皇が在位したとは考えられません。おそらく干支を

  1周遡り、440年頃に即位したと推測します。 

    図 北部九州における「神籠石山城」の分布  出典:久留米市HP

    

   写真  高良山姿と明治の神籠石列石  出典:久留米市HP

図 「水城」の構造    出典:大野城市HP

 

 

    次回は「継体天皇」(1)です。

 

 

 

 

 

 

 

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