○「白髪武広國押稚日本根子天皇」の名の由来
○『常陸国風土記』が記す「倭武天皇(いぶてんのう)巡幸記事」
○東国の実質的な支配者
○常陸国内の装飾古墳
1.「白髪武広國押稚日本根子天皇」の名の由来
その名を分解すると
「白髪」は、容姿を表わす美称です。即位時の年齢は30代かもしれません。
「武広國押」は、自らの軍隊などを率い、武で國(領土)を押し広げた天皇を表わします。
「稚日本根子」は、偉大な○○日本根子の正統な後継者を表わします。
清寧天皇は、偉大な先帝が成し遂げた「第二次九州王朝の確立」の遺志を継ぎ、より支配基
盤を強固にする目的で古代の東山道・東海道を巡幸しました。
その痕跡を示すのが『常陸国風土記』が記す「倭武天皇(いぶてんのう)の巡幸記事」と推
測します。
2.『常陸国風土記』が記す「倭武天皇(いぶてんのう)巡幸記事」
(1)常陸の国司、解して申す。〔古老相伝の旧聞の事〕倭武天皇、東の国を巡狩し、新治縣に
幸(いでま)す。新治国造の祖比奈良珠命(ひならすのみこと)に命じて新たな井戸を掘
らしめる。
(2)行方(なめかた)郡
①倭武天皇、天下を巡守し、海北を征討す。
「海北」は韓半島で、征討したのは高句麗と推測します。
②倭武天皇巡行してこの郷を過ぎる。佐伯名は鳥日子という者あり。その命令に逆らった
ので略殺する。
③倭武天皇、この野に停泊して弓はずを修理す。
(3)信太郡
倭武天皇海浜を巡行し、乗浜に行き至る.この時浜浦に多く海苔を乾かせり、是により
乗浜村と名づく。
(4)茨城郡
昔、倭武天皇丘の上に停留し、御膳を進め奉る時、水部に新しい清泉を掘らしむ。
(5)多珂郡
古老曰く、倭武天皇東の垂を巡るとしてこの野に頓宿。(中略)ここに天皇、野に幸(い
でま)し、橘皇女を遣わして海に臨みて漁(すなどり)せしむ。
注)橘皇女は倭武天皇の皇女と考えられます。
倭武天皇が安全に常陸国巡幸を続けるには、現地に警護する政治集団の存在を窺わせま
す。
その政治集団について、『常陸国風土記-筑波郡条』に
「古老曰く、筑波の縣は古(いにしえ)の紀の国と謂ひき」とあります。
皆さんもご存知だと思いますが、「紀の国」は現在の和歌山県、大幡主が治めた地です。
「紀氏」集団は、船で現在のつくば市へ進出したようです。
「紀氏」集団は、第一次九州王朝成立時代から最大の与党勢力として存在し、最初は常陸国筑波郡
に拠点を築き、倭武天皇巡幸を警護していたと推測します。
常陸国一宮 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中
主祭神;武甕雷命(たけみかづちのみこと) 武甕雷命は大幡主の別名です。
3.東国の実質的な支配者
第六十三話で紹介しましたが、東国の実質的な政治集団は各国の一宮が祀る主祭神に見ること
が出来ます。
(1)上総国一宮 玉前(たまさき)神社 千葉県長生郡一宮町一宮
主祭神:玉依姫命(たまよりひめのみこと 豊玉姫)
玉依姫命は豊玉彦の娘で、大幡主の孫に当たります。
(2)下総国一宮 香取神宮 千葉県香取市香取
主祭神:経津主大神(ふつぬしおおかみ)
経津主大神の別名は饒速日命・彦火々出見命などです。
経津主大神は豊玉彦の娘婿で、大幡主の孫に当たります。
(3)武蔵国一宮 小野神社 東京都多摩市一宮
主祭神:天下春命(あめのしたはるのみこと) 天下春命は豊玉彦の別名です。因みに
「天上春命(あめのうわはるのみこと)」は父大幡主の別名です。
以上から、東国(武蔵・上総・下総・常陸国)の実質的な支配者は、大幡主を頂点とする「白族
系紀氏」であることが確かめられます。
したがって、倭武天皇は九州王朝の岩盤政治集団「白族系紀氏」に守られ、安心で快適な東国巡
幸が実施できたと推測します。
写真 香取神宮 出典:香取市HP
写真 鹿島神宮「御船祭」 出典:同社HP
陸路・水路合わせて30㎞弱の道程を神様と共に大行列が巡幸する12年に一度のお祭り。
図 「香取海(かとりのうみ)」 出典:霞ヶ浦河川事務所
香取海は古代の関東平野東部に太平洋から湾入し、香取神宮の目前に広がっていた内
海。古くから東北地方及び常陸国と他地域の物流経路を担っていた。現在の「霞ヶ浦」で
す。
写真 上総国一宮 無形文化財「玉前神社神楽」 出典:一宮町役場HP
写真 武蔵国一宮「小野神社」 出典:同社HP
4.常陸国内の装飾古墳
代表的な装飾古墳 虎塚古墳 ひたちなか市中根
概要:前方後円墳 全長56.5㍍ 高さ5.5㍍ 前方後円墳 横穴式石室
装飾の概要:装飾には赤色のベンガラ(第二酸化鉄)が用いられています。
文様は連続三角文・円文・環状文・渦文など、九州の装飾古墳に類似しています。
写真 虎塚古墳玄室内部 出典;Wikipedia(2021/12/15/ 15:10)
常陸国は上総・下総国と同様に九州王朝にとっての特別な地域国家と考えられます
写真 現在の霞ヶ浦周辺地図
写真 今から一千年前の霞ヶ浦周辺地図
図 霞ヶ浦周辺の古墳分布図
次回は「弘計天皇(顕宗天皇)」です。