写真 「広開土王碑」 中華人民共和国吉林省集安市 出典:Wikipedia (2021/11/30 16:45)
○韓半島外交史の検証
○高句麗「広開土王碑文」とは
○西暦400年、倭軍が高句麗軍に反撃できた理由
1.韓半島外交史の検証
(1)馬韓
『記紀』並びに朝鮮半島の正史とされる『三国史記(注1)』にも記述が見えません。
他方、中国史書『三国史魏書-馬韓伝』・『後漢書-馬韓伝』・『晋書-馬韓伝』には、一
貫して馬韓は韓半島(北緯38度線以南)で最大の勢力を持つ国として記述しています。
高麗国(918~1391年)の高僧・一然(1206~1289年)が撰した『三国遺事』には、「馬
韓国・五伽耶(注2)・賀洛国(注3)」記事を載せています。
『三国史記』と『三国遺事』記事の齟齬はどのように考えたらいいのでしょうか。
『三国史記』の主眼は「高句麗・百済・新羅三国」にある事は明らかで、「馬韓国」の存在
を受け入れることが出来なかったのでしょう。
他方、『日本書紀』は中国史書が記す「馬韓国」を「伽耶或いは任那国」として認識してい
たことになります。
注1)『三国史記』
高麗国の儒学者兼官僚の金富軾(1075~1151年)による編纂。『三国遺事』より約1世紀
後に成立。
注2)五伽耶
阿羅伽耶(都は咸安)・古寧伽耶(都は咸寧)・大伽耶(都は高霊)・星山伽耶(都は
碧珍)・小伽耶(都は固城)の五カ国が伽耶を構成する国家群。
注3)賀洛国(からこく)
五伽耶の宗主国で、都は金海(きめ)。始祖王は金首露(きんしゅろ)。「金官国」と
も呼ばれていました。
『晋書』馬韓伝
「武帝の太康元年(280)、二年其の主頻が遣使を以て方物を貢献。七年、十年にも頻が入朝し
た。」
太熙元年(290)と二年、東夷校慰何龕に詣でて献上する。
咸寧三年(277)、再び来たりて、来年も入朝することの内諾を請う。」
注:原文は漢文
上記記事は、馬韓国王頻(ひん)が始めて中国王朝「斉」に正式朝貢した記事です。西暦277
年~291年まで外交関係が存続していました。
注目すべきは「馬韓国王頻」の名にあります。一字名称なのです。もしかすると「倭の五王」
と関係があるかもしれません。
(2)伽耶
『日本書紀-雄略紀』には記述が見られません。
伽耶は、五伽耶の宗主国「金官伽耶国」と推測します。
(3)任那
不思議なのは、「任那国司、吉備上道臣田狭(たさ)」の反乱鎮圧記事がなく、曖昧なまま
です。
(4)新羅
八年に名前不詳の新羅王(注1)から、高句麗に四方を囲まれたので、任那国に救援要請がきま
す。この要請に応じて、任那王膳臣斑鳩(かしわでおみいかるが)は吉備臣小梨(きびのおみ
こなし)・難波吉士赤目子を派遣し、新羅救援に向かいますが、何故か。膳臣斑鳩は動こうと
はしません。
九年三月、新羅征討のため、紀小弓宿禰(きのこゆみすくね)・蘇我韓子。大伴談連(おお
とものかたりむらじ)・小鹿火宿禰の四人の将軍に添え、吉備上道采女大海(きびかみつみち
うねめおおあま)を派遣するも、大伴談連・紀岡前久来目並びに采女宿禰・(紀)小弓宿禰は
戦死し、(蘇我)韓子は大磐宿禰の恨みを買い、射殺されました。
何故か、大伴氏と紀氏は隣人(同祖)との記事が追加されています。
以上の記事は、「高句麗広開土王碑文が刻す高句麗と倭国による韓半島における覇権を廻って
の戦い」を断片的に語っているのではないでしょうか。
注1)新羅王
第17代奈勿麻立干(在位356~412年)は、西暦356年初代新羅国王、姓は「金氏」。
「昔氏(そくし)辰韓国」を滅ぼし、倭国の属国から離脱を宣言した王です。
したがって、『日本書紀』が記す任那への救援要請は無かったかもしれません。
『日本書紀-雄略紀八年春二月条』が記す「新羅、倭国に背く」記事は西暦356年が該
当します。
『梁書-新羅伝』
「新羅、其の先祖は元の辰韓の苗裔。」
「辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々継承され、辰韓は自ら王を立てることは許されま
せん。(中略)三国魏の時代は斯廬と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と称した。小国のた
め、自ら通史を派遣することはなかった。」
注:原文は漢文
同記事から、「新羅」は高句麗の属国ではなかったことが確認できます。
(5)百済
『三国史魏書―馬韓伝』に、馬韓国を構成する五十四ヶ国に「伯済国」が見えます。後の
「百済国」と考えられます。
百済と高句麗は同じ「扶余族」を出自としています。高句麗の圧迫を受け、平壌付近から韓
半島西南部へ移動。3世紀初めに馬韓国から郡の割譲を受け、馬韓国の属国「伯済国」として建
国。その後、国名を「百済国」に改めます。
- 『日本書紀-雄略天皇紀二年秋七月条』
百済が雄略天皇の嬪として池津姫を献上しましたが、石川盾に奪われたことを天皇は恨み、
既に妊娠していた池津姫と共に石川盾を焼き殺します。
- 『日本書紀-雄略天皇紀五年夏四月条』
「百済の加須利君、蓋鹵王(こうろおう 在位455~475年)は池津姫が焼き殺されたことを
知り、雄略天皇の非礼と自国を冒涜する行為に対して、雄略天皇を暗殺するため弟の軍君昆支
(いくさのきみこんき)に雄略天皇に仕えることを命じましたが、弟昆支は蓋鹵王の産み月間近
の夫人を自分の妻として日本に渡り、朝廷に仕えることになりました。
筑紫で生まれた御子は嶋君と名付けられ、その後母国に送り返され、武寧王(在位502~523
年)として即位しました。
第21代蓋鹵王の姓名は「扶餘慶司」です。すなわち、「扶余族の徽(しるし)」を誇ってい
ます。倭国の属国から独立した王です。
したがって、『日本書紀』記事は本質的にあり得ません。
蓋鹵王の弟昆支は自身の意思で倭国に仕えたのでしょう。
○昆支王を祀る神社
飛鳥戸神社 大阪府羽曳野市飛鳥
主祭神:素戔嗚尊
百済王族の昆支王の子孫である飛鳥戸造氏族の居住地であることから、本来は飛鳥戸造の祖
神昆支王が祀られていたと考えられます。
写真 飛鳥戸神社 出典:羽曳野市観光協会HP
③『日本書紀-雄略天皇紀二十一年春三月』
「前年、百済が高麗のために破れた」ことを知り、久麻那利(くまなり)を割譲。また汶州王
の元に救援兵を派遣し、百済を救援すると共に復興することに成功しました。
「広開土王碑文」によると、高句麗が百済に侵攻した西暦399年当時の王は第17代阿莘王(在位
392~405年)です。
『三国史記-百済本紀』は「阿莘王六年(397)五月、倭国と友好を結び、太子の腆支を倭国
に人質として送る。」と記しています。
西暦405年、阿莘王薨去し、第18代腆支王(てんきおう 在位405~420年)が即位します。
④『日本書紀-雄略天皇紀二十三年夏四月条』
「百済の文斤王薨去し、天王、昆支王の第二子末多王を可愛がり、其の國の王となる。兵器に
加えて百済国の護衛兵として筑紫國の軍士五百人を派遣しました。是を東城王(とうせいおう)
とす。」
同記事は何が何でも雄略天皇を「倭の五王-武」とするための辻褄合わせの記事です。其の
結果、馬脚を現したのです。
第24代東城王(在位479~501年)は、父三斤王(在位477~479年)の薨去後即位します。
「天王」の表記は不思議ですね。
2.高句麗「広開土王碑文」とは
高句麗「広開土王碑文」第二段要約
(1)永楽五年(395)
倭軍が辛卯年(391)に渡海し、百済・□□・新羅を破り臣民と為す。(□は欠字です)
(2)永楽六年(396)
王自ら水軍を率いて残国(百済)を討つ。
(3)永楽八年(398)
新羅に攻め入り、それ以来朝貢が始まった。
(4)永楽九年(399)
奴客(百済)を臣民とした。(百済)王は命乞いをしたので帰国させたが、百済は誓いを破り倭軍
に和通していたことが判明。
(5)永楽十年(400)
新羅城には倭軍・安羅戌兵が満ち、新羅を救援するため歩騎五万を派遣し、倭寇(倭軍)を撃退
した。
(6)永楽十四年(404)
倭軍が俄に帯方郡まで侵入したのでこれを撃退し、倭軍潰敗し、無数を斬り殺す。
(7)永楽十七年(407)
歩騎五万を派遣して多くの城を奪回し、倭軍を湯水の如く斬り殺し、戦利品は馬具や軍事機材
を含め膨大なものであった。
(8)永楽廿年(410)
おおよそのところ、倭軍を破って得た城は六十四、村は千四百に及ぶ。
注:原文は漢文
同碑文は、「高句麗」史観によって刻まれています。
「百済」を同族の東扶余とみなし、従来から高句麗の属国と認識しています。
また「新羅」は西暦356年から高句麗の属国という歴史観を持っていました。
永楽元年辛卯(391)、倭軍が韓半島に攻め入ってきたので、百済・新羅を救援する目的で、倭
軍との果てしない戦闘状態に入ったと推測します。
戦いの推移は、
①西暦391年から395年まで、倭軍は高句麗軍に対して優勢であったと推測します。
②西暦396年、高句麗軍は劣勢を挽回するため、意表を突き、水軍を率いて百済領内に侵入しま
す。たちまち、倭軍と百済軍は劣勢に立たされました。
③西暦398年、高句麗軍は新羅に兵を向け、多くの城を陥落させ、新羅は降伏し、高句麗の属国と
なることを誓います。
④西暦399年、百済は降伏し、高句麗の臣民となることを誓いますが、ほどなく倭軍に寝返り、
百済は各地で高句麗軍に抵抗を続け、高句麗軍は次第に追い詰められ、翌年には百済から撤兵
します。
⑤西暦400年、倭軍と安羅軍などが間隙を突いて新羅に攻め入ります。慌てた高句麗軍は歩騎五
万を差し向けますが、戦局は碑文とは違い、高句麗軍は劣勢に立たされ、徐々に北へと撤兵しま
す。
⑥西暦404年、倭軍は高句麗軍を帯方郡の境まで高句麗軍を追い詰めますが、戦局は膠着し、倭軍
も消耗しました。西暦407年、これ以上の深入りは避け、倭軍は撤退します。碑文は、倭軍の撤
退を倭軍潰敗と表現したと考えられます。
⑦西暦407年の記事は回顧記事です。一方的に倭軍を潰敗させたにも関わらず、百済・新羅への侵
攻は成功せず、僅かな領土を得たに過ぎません。
碑文に記述はありませんが、高句麗軍将兵の多くが捕虜となり、任那・百済・倭国へと流入して
いきました。
写真 「広開土王碑」 中華人民共和国吉林省集安市 出典:Wikipedia (2021/11/30
16:45)
韓国・北朝鮮は酒匂中尉による「拓本改竄」説を主張し、日本国内の歴史学者は何ら反
論できませんでした。この事態を打開したのが「九州王朝論」で有名な故古田武彦氏で、
精緻な論証で反論しました。
その後、北朝鮮の学者は中国の考古学者と共に同地を訪れ、実地検証の結果、酒匂中尉
による「拓本改竄」の痕跡を見いだすことは出来ませんでした。
故古田武彦氏の業績により、日本の歴史学会は溜飲を下げたのは云うまでもありませ
ん。
しかし、碑文の解釈を廻っては、韓国・北朝鮮の歴史学者は「主語」を換骨奪胎して、
相変わらず恣意的な解釈が目立ちます。それに同調する日本の歴史学者は科学する心を失
っています。
3.西暦400年、倭軍が高句麗軍に反撃できた理由
「広開土王碑文」にあるように、高句麗軍の主力部隊は騎兵で、戦術的には機動力でもって、
縦横無尽に戦線を展開出来る強みがあり、倭・百済・新羅軍は翻弄されたと推測します。
この劣勢を挽回する策が「騎馬の増強」にあったと推測します。倭国では渡島半島や博多湾に
浮かぶ島嶼部には「牧」が存在し、戦闘用の中型馬を飼育していたと考えられます。
但し、一度に輸送することは出来ないので、ほぼ1年を要して輸送したと推測します。
次回は「雄略天皇」(4)です。