第九十五話  「雄略天皇」(2)

写真  土佐神社のご神紋「二重亀甲に剣花菱」 出典:土佐神社HP

「出雲大社」と同じですね。

○暴君大泊瀬幼武天皇

○葛城一言主との遭遇

1.暴君大泊瀬幼武天皇

先帝穴穂天皇と同様に、暴君として暴虐記事であふれ、天下(人民)は誹謗し、「甚だ悪しく

まします天皇なり。」と口々に伝えています。

このような天皇の治世が二十三年続いたと『日本書紀』は記していますが、先帝穴穂天皇と併

せると二十六年間に及びます。

故百嶋氏は「雄略天皇は天皇家の血筋をひいている」と述べています。

私見は、仁徳天皇東遷後に誕生した住吉中皇子の後継者が雄略天皇と推測します。

仁徳天皇薨去後、住吉中皇子は九州王朝分家として独立しましたが、九州王朝本家の有力豪族

や隣国大和に盤踞する阿蘇氏を中心とした在地勢力との摩擦や攻防が絶え無かったのでしょう。

また、有力豪族の直系と庶流が覇権を廻り、いわゆる「下克上の戦い」が展開され、其の争乱

が「近畿」では三十年以上続いたのではと推測します。

以下、『日本書紀』が記す暴君大泊瀬幼武天皇記事を検証してみましょう。

(1)大草香皇子の御子眉輪王による先帝穴穂天皇暗殺事件に関して、大泊瀬幼武皇子は事件の黒

幕に兄二人が関与した疑いを持っていました。

三兄八釣白彦(やつりのしろひこ)皇子を責め立て、挙げ句の果てに斬殺しました。

次に次兄坂合黒彦(さかあいくろひこ)皇子(何故か、『日本書紀』は「境」から「坂合」

に改変しています。)を責め立てます。

同時に眉輪王への殺意を明らかにします。

坂合黒彦皇子と眉輪王は相談し、圓大辞(つぶらのおおおみ)の館に逃げ込みます。

ここまでの記事で、疑問点が三点あります。

① 故穴穂天皇の後継者と目される長兄木梨軽皇子に対して大泊瀬幼武皇子は何ら、行動を起こし

ていません。いわば「部外者の扱い」です。

『日本書紀』編纂者は、辻褄合わせをするため、「木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と同母妹

の軽大娘(かるのおおいらつめ)皇女との近親相姦事件を取り上げ、自害させたとも伊予國へ流

した」との記事があります。この事件によって、木梨軽皇子は後継者レースから脱落したのだと

説明を加えています。

② 大泊瀬幼武皇子が兄二人に強硬な態度を示したのが解せません。兄二人を屈服させる軍事力が

背景にあったと想像はつきますが、それでも四男の大泊瀬幼武皇子だけが強力な軍事力を持てた

とは思えません。

考えられるのは、大泊瀬幼武皇子が住吉中皇子の正統な後継者で、」九州王朝本家に属す有力

豪族の支援があり、本当の兄ではない八釣白彦・坂合黒彦兄弟を征伐したと推測します。

③ 眉輪王と坂合黒彦皇子は何故、葛城圓大臣の館に逃げ込んだのでしょうか。『日本書紀』編纂

者は其の理由を記していません。

おそらく、二人は九州王朝の実力者に「仲介の労」を依頼したのではないでしょうか。

(2)大泊瀬幼武皇子は兵を起こして、葛城圓大臣の館を取り囲み、さらに圧迫を強めた結果、圓大

臣は軍門に降り、娘韓媛と葛城の宅(支配地)七区を献上し、命乞いをしますが許されず、圓

大臣・坂合黒彦皇子・眉輪王の三人は焼き殺されます。

(3)履中天皇の長子市邊押磐(いちべのおしは)皇子を狩りに誘い、隙を突いて弓矢で射殺。

殺害理由について『日本書紀』は記述していません。おそらく編纂者が求めた史料には其の

理由が記されていなかったのでしょう。

(4)石川盾が、百済から天皇の妃として贈られた池津姫を孕ませたことを怒り、大伴室屋大連に命

じて、石川盾夫妻と池津姫を磔にして焼き殺す。

或本では「石川盾を石河股合首の祖盾」とありますが、「石河股の股」より、石川氏の庶流

の人物と推測されます。

池津姫と石川盾との接点は、池津姫を百済から送迎する役目を担っていたとしか考えられま

せん。このような重き役目を果たして石川盾が任命されるとは考えられません。

『日本書紀』編纂者は尤もらしく『百済新撰(現在は伝わっていません)』は蓋鹵王(こう

ろおう)の時代と記していますが、蓋鹵王の在位は西暦455年~475年であり、同記事は疑問で

す。『日本書紀』編纂者はどうしても「倭の五王”武“を雄略天皇に比定」する作為があったの

です。

(5)阿閉臣國見によって、「𣑥幡(たくはた)皇女と湯人廬城部連武彦が不義を犯して孕ませ

た。」との報告を受けた大泊瀬幼武天皇は、偽りを言って廬城部連武彦を打ち殺したあと、同

皇女を尋問したところ、「覚えのないことです。」と答えました。その後、皇女は五十鈴川辺に

神鏡を埋め、首を括って自殺しました。同皇女の死体の腹部を裂いたところ、妊娠の徽(しる

し)はありませんでした。息子の無実を知った湯人(ゆえ、伊勢大神を祭祀する人々の生活一

般を支援する業務者)廬城部連武彦の父は阿閉臣國見を恨み、殺そうとしましたが、石上神宮

に逃げ込まれ、仇を討つことが出来ませんでした。

問題は、阿閉臣國見の讒言を簡単に聞き入れる大泊瀬幼武天皇の軽はずみな行動です。先帝穴穂

天皇に大草香皇子を讒言した根の使主事件と同じです。

両事件の本質は「根の使主・阿閉臣國見」を陥れる目的があったと推測されます。

(6)吉備下道臣前津屋(さきつや)が「少女を天皇に見立て、大女を自分に見立て、相戦わせ、少

女が勝てば、刀で斬り殺す」など天皇を誹謗する行為を繰り返していたのを聞きとがめ、物部の

兵士30人を派遣し、前津屋とその同族70人を誅殺します。

故百嶋氏作成の「神々の系図-平成12年考」によると、吉備下道臣の始祖は孝霊天皇とハエ

イロネの間に生まれた桃太郎のモデル吉備津彦で、妃は稚足彦(わかたらしひこ)こと贈成務

天皇の御子弟姫です。

吉備下道臣前津屋は、私見では吉備津彦の三世孫に相当します。

すなわち、九州王朝の岩盤豪族です。僅か30名の物部兵力では敵う相手ではありません。

吉備下道臣も5世紀半ばを過ぎたあたりから、「真金吹く吉備の中山」で有名な鉄鉱石の採

掘が枯渇し、徐々に勢力は衰え、在地の物部氏勢力に圧倒され、国造職を失いました。決して大

泊瀬幼武天皇の軍門に降ったわけではありません。

(7)吉備上道臣田狭(たさ)が大泊瀬幼武天皇の妃稚媛を求めたので、聞き入れました。その後、

田狭は任那国司に任命されました。天皇は、突然「新羅を討て。」と田狭臣の子弟君と吉備海

部直赤尾に命じました。弟君は百済に入り、新羅への道を老女に化けた國津神に騙され、道に

迷い目的を果たすことなく、また百済に託された技術者を大嶋に残したまま帰国しました。

任那国司田狭は弟君の行動を評価し、「自分は任那に留まり、日本との通交を止めるので、

汝は百済に渡り、百済を討て。」と命じましたと。明らかに大泊瀬幼武天皇に対する反乱計画

です.これを聞いた弟君の妻樟媛は夫を殺して、吉備海部直赤尾と共に百済の技術者久延のため

に大嶋へと向かいます。天皇は弟君の不在を訝しみ、田狭の謀反計画が判明します。

吉備上道臣田狭は、私見では吉備武彦の三世孫に相当します。田狭は任那国王でもあります。

正統な天皇ではない贈雄略天皇とは同格です。

稚媛(わかひめ)は名が示すように稚足彦(わかたらしひこ)こと贈成務天皇の後裔で、吉備

下道臣の王女です。

贈雄略天皇の妃ではなく、吉備上道臣田狭の正妃と推測します。

『日本書紀』は何故か、謀反人田狭を誅殺する記事がありません。有り体に言えば「尻切れトンボ」記事です。

事件の本質は、策略を用いて百済から九州王朝に託された技術者を大和へ

迎え入れた説話を、大がかりな嘘ほど信じやすいという人間の心理を見抜いた創作と推測します。

以上の事件は、大泊瀬幼武天皇を中心とする事件ではなく、第一次九州王朝の弱体化から派生した事件と推測します。

写真  吉備津神社 岡山市北区吉備津   出典:同社HPより転載

本来は、吉備国の総鎮守

2.葛城一言主との遭遇

四年の春二月、葛城山で猟をしていたとき、顔かたち・容姿が天皇と瓜二つの貴

人と出会います。天皇が尋ねると「吾は現人神。先に王の諱を名乗るのが礼儀であ

る。しかる後に吾も名乗ろう。」と応えました。貴人は「一言主(ひとことぬし)」

と名乗りました。

近傍の百姓に一言主の名を尋ねると、ことごとくが「徳のある天皇」と応えまし

た。同記事は、百姓が「一言主が真の天皇」と認識していたことになります。

「一言主」を祀る神社

○葛城一言主神社  奈良県御所市森脇

ご祭神:葛城之一言主大神・幼武尊

「延喜式」神名帳によると一坐で、幼武尊は後に合祀されたようです。

「凶事も吉事も一言で言い放ち解決実現する神」とあります。

○葛城神社  佐賀県三養基郡三根町天建寺

ご祭神:葛城一言主

同社は奈良県の葛城一言主神社から勧請したとする記録はないようです。

○鹿路神社  佐賀県神埼市背振町鹿路

ご祭神:葛城一言主命・葛城襲津彦の祖

「鹿路」の本来の意味は「轆轤」で、一言主は「製鉄の神」とも云われています。

○土佐神社  高知県土佐市一宮しなね  土佐国一宮

ご祭神:味鋤高彦根神または一言主神

写真  土佐神社    出典:Wikipedia(2021/11/26 19:30)

写真  土佐神社のご神紋「二重亀甲に剣花菱」 出典:土佐神社HP

「出雲大社」と同じですね。

以上の神社データから、「一言主」のご神格は以下の通りです。

  • 高い農業技術力を有する神
  • 果敢な決断能力を有する神
  • 製鉄技術を有する神
  • 「主」と呼ばれる神

通説では「事代主」あるいは「味鋤高彦根神」が囁かれていますが、以下の理由から決め手はな

いと考えています。

○事代主

『記紀』は父を大国主、母は豊玉姫としていますが、故百嶋氏は講演会で豊玉姫の連れ子

とし、大国主の御子ではないと強調しています。

事代主は、白族統領の徽(しるし)「主(ぬし)」を名乗っていますが、おそらく自称で

はないでしょうか。本来の名は美保神社が記すように「少那彦(すくなひこ)」で、別名に

は『記紀』が記す三島溝杙・大田田根子が知られています。

事代主を祀る奈良県桜井市の大神神社の神紋は「三本杉」です。

また、「酒造の神」としては有名ですが、(1)~(3)には該当しません。したがっ

て、「一言主」の可能性は低いと考えています。

○味鋤高彦根(味耜高彦根とも表記)神

味鋤高彦根(味耜高彦根とも表記)神は、第三十話で詳しく紹介しましたので参照してい

ただければ幸いです。

故百嶋氏は味鋤高彦根が出雲で威張りすぎたために任地替となり、阿蘇耳族の蠢動を監視

する役目と説明しています。

一方では、出雲で「高鴨神」として敬愛されていたようです。

母は白族統領豊玉彦の娘豊玉姫ですが、白族統領の後継者とは考えられず、「一言主」に

は該当しません。

では、「一言主」とは誰を指すのでしょうか。

皆さん、知恵を絞って想像してください。

 

次回は「雄略天皇(3)」です、

 

 

 

 

 

 

 

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