第三十九話 「倭女王卑弥呼」(2)

写真  福岡県前原氏有田 平原遺跡内の 平原王墓から出土した「大型内向花紋鏡」

出典:Wik(2021/09/26  14:00)

○故百嶋説と『魏志』倭人伝の齟齬

○卑弥呼治世下で起きた事件

○卑弥呼の宮と陵墓

 

1.故百嶋説と『魏志』倭人伝の齟齬

私が古代史ファンとなる切掛けを作ったのが、故古田武彦氏でした。同氏は『魏志』倭人伝

(『三国志』-魏書第30巻烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝倭人条の略称)の著者西晋の陳寿

(ちんじゅ)を「信じ通す」ことで知られています。

他方、故百嶋氏は「ごちゃ混ぜの記述」といってはばかりません。

端的に言えば、故古田氏は「文献主義」、他方故百嶋氏は「神社考古学に基づく実証主義」

の違いがあります。

故百嶋氏説は『魏志』倭人伝の記述と80年ほど遡ります。このことが“トンデモ説”として敷

衍(ふえん)しています。

しかし、個々の神(実は人)を祀る神社を精査していくと故百嶋説に頷く場面が多々ありま

す。

2.卑彌呼治世下で起きた事件

(1)スサノオと大己貴命(おおなむちのみこと)の戦い

故百嶋氏はスサノオと大己貴命が播磨で戦い、大己貴命が勝利したと述べていま

す。『播磨国風土記』では、大己貴命を「大汝命」と記し、スサノオの元の名天日槍命

(あめのひぼこのみこと)と大己貴命とのかかわりが記されています。

・揖保郡粒岡条

「天日槍命、韓国より渡来し、“国主である葦原志挙呼命”に滞在するための許可を求め

た。」

昔氏統領スサノオは阿加流姫(あかるひめ)を追って但馬の国に渡来しました。大己貴

命は出雲係り兼実質出雲国王として君臨後、伯耆国を経て播磨国へ進出し、両者は、その

後播磨国を舞台に戦い、スサノオは敗れました。しかし、出雲に住む子供たち(『出雲国

風土記』が記す青幡佐草日子命・都留支日子命・国忍術別命など)と会うためには播磨国

を通らざるを得ず、大己貴命に滞在の許可を求めたのではと推測します。

(2)長髄彦(ながすねひこ)の叛

     支配地替え以前は「火国(ひのくに)」を支配地としていました。その後、投馬国へ支配

地替えになった長髄彦は不満を募らせ、AD172年、九州王朝に叛旗を翻しました。

戦いは、九州全域に及び、激戦地は「吉野ヶ里」周辺で、九州王朝側はウマシマジ率い

る“大水口(おおみなくち)物部軍”と北筑後物部軍が激突し、長髄彦は万余の死傷者を出

し、敗北しました。

戦後処理は、大幡主一族を中心に寛大な処分を求めたため、長髄彦は罪一等を減ぜられ、

九州から追放されました。

故百嶋氏は「この戦いの間、卑弥呼は難を逃れて宮崎県西諸県郡姫原(ひめはる)地区

の“耶馬臺國(やまたいこく)”に避難した。」と講演会で述べています。

さらに、「姫原地区はその後、藤原氏によって“高原(たかはる)”に地名へ地名変更され

た。」とも述べています。

     図  宮崎県西諸縣郡の位置

黄色部分は西諸県郡・緑色部分が「高原」地区

3.卑弥呼の宮と陵墓

宮について、故百嶋氏は、神武天皇が暮らした福岡市南区大字柏原の「柏原宮(かしはらみ

や)」の近くにある「桧原」としています。

図 福岡市南区大字柏原周辺地図

陵墓については、故原田大六氏が発掘指揮した「平原王墓の1号墳」が有力候補地です。

平原王墓(ひらばるおうぼ)のある平原遺跡は、糸島市曽根遺跡群の一つです。

平原王墓は、方形周溝墓に割竹型木棺が埋納され、副葬品に直径46.5センチの大型内行花文

鏡五面を含む鏡四十面をはじめとして多数の出土品が検出されました。

注:伊勢神宮のご八咫鏡八咫鏡」

「延喜式」の『伊勢大神宮式』・『皇大神宮儀式帳』でも、容器の内のりが一尺六寸三

分(約49センチ)の径をもつと明記しています。

容器(樋代 ひしろ)の中にすっぽりと納まる大きさです。

図 平原遺跡周辺地図

写真  平原王墓遺跡から出土した「大型内行花紋鏡」

出典:Wikipedia(2021/09/26 14:00)

Wikipediaによれば、神道五部書の一つである『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(」)に「八咫鏡

(やたのかがみ)」の形は「八頭花埼八葉形(はっとうはなさきはちようけい)也」とあり、この

「八頭花埼八葉形」図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみであると

しています。

故原田大六氏は、「平原王墓1号墳を玉依姫こと大日孁貴の墓である」と指摘していますが、故

百嶋氏は、玉依姫は神武天皇の御母(おんはは)と指摘し、陵墓に関する具体的な言及はしてい

ませんが、「平原王墓が卑弥呼の陵墓」である可能性を認めていたようです。

写真  平原王墓 福岡県糸島市有田 自撮り(2016/07/16)

周囲は住宅地で、みかけない姓の家が多くありました。

次回は「贈綏靖天皇」です。

 

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