写真 山口県下関市長府宮の忌宮(いむのみや)神社に伝わる「数方庭祭」
出典:忌宮神社HP
○塵輪
○新羅の塵輪
○桜桃沈輪(ゆすらんじんりん)
1.塵輪
下関市長府宮の内にある忌宮神社の「数方庭祭(すほうていさい)は“新羅の塵輪”の扇動で熊
襲が豊浦宮を襲撃し、宮門を警護する阿倍高麿・助麿兄弟はあえなく討ち死にするも、仲哀天皇
自らが弓矢で塵輪を討った。戦勝を祝い塵輪の屍体を囲んで踊った。」のが起源とされていま
す。
写真 「数方庭祭」 出典:忌宮神社HP
討ち死にした阿倍高麿・助麿兄弟とはどのような人物だったのでしょうか。
福岡県福津市宮司元町の宮地嶽神社の古い祭神として兄弟は祀られています。現在は勝村大神・勝頼大神として祀られていますが、別の祭神の名が伝わっているようです。それが阿倍相丞で「神社帳」に「阿倍相丞(あべのしょうじょう)・藤助麿(とうのすけまろ)・藤高麿(とうのたかまろ)然々」とあります。
Wikipedia によれば、「相丞(丞相とも記す」は、古代中国で天子を助けて国務を総攬した大臣とあり、藤助麿・藤高麿兄弟は大臣阿倍相丞の係累と考えられます。開化天皇の項で詳述した九躰皇子の「朝日豊盛命・暮日豊盛命」の可能性もうかがえ、豊浦宮の宮門を警護するような人物とは考えられません。
その証左が宮地嶽古墳の存在です。同古墳からは、三㍍を超える金銅装の頭椎太刀(かぶつちたち)、金銅装鞍金具・金銅装壺鐙馬具類・金銅装透彫冠・玻璃板・玻璃丸玉等が出土しています。
出土品の豪華さから、同古墳は大王クラスと推測されています。
したがって、「数方庭祭」の伝承は疑問が残ります。
写真 「宮地嶽古墳内部」 出典:教育委員会HP
私も古墳内部に入ることが出来ました。正面奥の石舞台は、古代「筑紫舞」が奉納されたと伝えられています。
写真 「宮地嶽古墳」出土の金銅装の頭椎太刀(かぶつちたち)など 出典:福津市教育委員会HP
写真 「宮地嶽神社」 出典:福津市教育委員会HP
日本一の注連縄を飾る宮地嶽神社
2.新羅の塵輪
当時は「新羅国」は存在せず、「斯羅国」と呼ばれていました。「数方庭祭」の関係者の生
年を『神々の系図-平成12年考』から抽出すると
阿倍相丞AD225年生まれ。
藤助麿(=朝日豊盛命と仮定すると)AD227年生まれ?
藤高麿(=暮日豊盛命と仮定すると)AD229年生まれ。
贈仲哀天皇AD215年生まれ
神功皇后AD226年生まれ、42歳で死亡(AD268年)
彼らが共通して活躍した年代は,AD245~250年頃と推測されます。その当時の斯羅国王は「昔
氏系」の11代助墳尼師今と12代沽解尼師今の時代に相当します。
故百嶋氏によれば、助墳尼師今と沽解尼師今はいずれもスサノオの御子と述べています。
『三国史記-新羅本紀』沽解尼師今三年(AD249年)夏四月条に
「倭人が舒弗邯(じょふったん)の昔于老(そくうろう)を殺害した」との記事があります。
舒弗邯とは当時の最高官位で、第12代沽解尼師今に次ぐナンバー2の人物が殺害されたという
記事は大規模な侵略があったことを物語っています。
では、倭国はなぜ斯羅国を侵略したのでしょうか。
当時の斯羅国王は不明ですが、重臣昔于老もその姓よりスサノオ系と考えられます。
九州王朝内では、スサノオの孫大山咋は孝霊・孝元天皇に仕えた忠臣でしたが、大山咋の長男
稲氷命(いなひのみこと)は、開化天皇即位前に川上タケルと共に反乱を起こし、敗北後助命さ
れたことは前述しました。
稲氷命を『記紀』は初代神武天皇の実兄とし、行方不明としています。「神々の系図-平成12
年考」では、自称神武天皇ことツヌガアラシトの実兄としています。
「新撰姓氏録」では、稲氷命を新羅の祖ウガヤフキアエズの御子としています。この記述が正
しければ、稲氷命は新羅に関わる人物であることが確かめられます。実弟ツヌガアラシトは「住
吉三神の中筒男命」として開化天皇の忠臣、末弟の椎根津彦こと倭彦も九州王朝の「梶取」とし
て活躍していました。
他方、稲氷命は日本列島から朝鮮半島南部の斯羅国へ派遣され、華々しい活躍をしていた弟た
ちとは対照的な境涯でした。弟たちへの嫉妬心や疎外感から九州王朝へ反抗する姿勢を示し、終
には収拾がつかない事態を惹起したのでしょう。
斯羅国問題を解決するため九州王朝はウマシマヂ率いる隈系物部軍を派遣し、中心人物であっ
た昔于老こと稲氷命をAD249年粛正したのでしょう。
“新羅の塵輪”とは、昔于老をモチーフに創作されたと推測されます。
注)助墳尼師今(在位230~247年)沽解尼師今(在位247~261年)
3.桜桃沈輪(ゆすらんじんりん)
福岡県久留米市の高良玉垂宮の「鬼夜会祭では、賊徒である肥前國水上の桜桃沈輪を成敗し
たのは玉垂命こと藤大臣」としています。
藤大臣とは、福岡県福津市宮司元町の宮地嶽神社の大祝阿倍相丞、後の開化天皇と故百嶋氏
は述べています。
以上から、本来の伝承は高良玉垂宮の「鬼夜会祭」と考えられます。
4.まとめ
忌宮神社の伝承では、「“新羅の塵輪”」の扇動で熊襲が豊浦宮を襲撃した。」とあります
が、新羅の塵輪と熊襲の関係が不明です。
また、熊襲が九州王朝の勢力範囲を突破して、穴門の豊浦宮を襲撃できるでしょうか。
さらに云えば、“新羅の塵輪”が九州に上陸し、どの地を攻撃したかは、全く言及されていま
せん。
『肥前叢書第一輯-肥前史談会P36~37』に
「神功皇后 又異敵ヲ滅サン爲ニ、諸神ヲ神集島ニ集ム 又松浦ノ沖ニ神軍威ヲ現ワシ
テ、異族ニ示シ給フ」
とあり、現佐賀県唐津市湊町沖合1㎞に浮かぶ「神集島(かみつどいしま)」に九州王朝防衛
軍の前線基地が置かれ、海の彼方から侵攻する異敵を迎え撃ち、撃退したという伝承が残さ
れています。
「肥前國水上(みなかみ)」は、現佐賀市大和町大字川上地区に「水上山(標高112.8m)」
があり、ウガヤフキアエズと奈留多姫(なるたひめ)の王子“河上建(かわかみたける)”が、
九州王朝軍に降伏した場所でもあります。
もしかすると、“河上建の反乱”をモチーフにして、“新羅の塵輪”と呼応した“熊襲=河上建”と
いう図式で創作された説話かもしれません。
写真 「神集島」周辺地図
写真 博多駅の「卑弥呼」人形 博多駅で撮影
故百嶋氏は、「卑弥呼」ではなく「壱與(いよ)」と指摘しています。私見も同様で『日本
書紀』の記述を読む限り、ウマシマチ命が百済から将来した「七支刀」を妹壱與に献上したと
考えています。
「七支刀」は、時代にもてあそばされ、流転の末「石上神宮」に奉納されました。
次回は「応神天皇」です。