写真 メジロ 出典:とり図鑑-教育出版
今年初めて見かけました。厳しい寒さに関わらず早春の訪れをいち早く伝えてくれました。
(2022/02/25)
写真 稚足彦こと贈成務天皇の始祖「天忍穂耳命を祀る英彦山神宮上津宮」
出典;Wikipedia(2022/02/26 12;45)
英彦山神宮 福岡県田川郡添田町
ご祭神:正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
英彦山:福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨がる標高1119㍍の山
○正統な天皇ではなく藤原氏によって贈られた贈天皇
○稚足彦の系譜
○造長とは
○宮と陵墓
1.正統な天皇ではなく藤原氏によって贈られた天皇
稚足彦天皇は、父大足彦こと贈景行天皇、母の名はわかりません。
稚足彦の任務は、父大足彦と同様に九州王朝特務機関長として開化天皇の治世を支えました。
姉の足姫(たらしひめ)は孝元天皇の弟伊予皇子の妃、妹の足姫は吉備津彦の妃です。
『古事記』では、穂積臣等の祖、建忍山垂根の娘、弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶り、和訶奴氣王(わかぬけおう)の一柱。
不思議なことに弟財郎女について、皇后或いは妃との記述はありません。
穂積臣の祖は、孝元天皇の養子屋主忍男武雄心命が臣下に降り、「穂積忍山」名を改めたことは前述しました。
したがって、建忍山垂根が穂積臣等の祖であるはずもありません。加えて管見にも見えません。
また、弟財郎女並びに和訶奴氣王も管見に見えません。
太安万侶による創作記事としか思えません。
他方、『日本書紀』には、稚足彦の皇后・妃及び皇子・皇女の記事がありません。
本当に独身で過ごしたのでしょうか。
2.稚足彦の系譜
残念なことに故百嶋氏は稚足彦以後の系譜について、記録を残していません。
稚足彦以前の系譜は以下の通りです。『記紀』はいずれも「贈天皇」の称号を贈っています。
理由は、藤原氏の旧姓「中臣氏」の遠祖を天忍穂耳命に比定していることによります。
始祖天忍穂耳命こと贈孝昭天皇-御年神こと贈孝安天皇-大足彦こと贈景行天皇-稚足彦こと贈成務天皇
ところが、上記系譜にヤマトタケルの御子仲足彦こと贈仲哀天皇が出現します。
「仲足彦(なかたらしひこ)」とは「中継ぎの足彦(たらしひこ)」という意を含んでいます。
すなわち、大足彦こと贈景行天皇が不慮の事故で若くして死去したことを受けて、仲足彦こと贈仲哀天皇が「足彦」を継承したと推測します。
その後、稚足彦が成年に達したので、使命を果たした仲足彦はその座を降りたと推測します。
3.造長とは
故井上光貞氏の研究によると、8世紀以前の地方組織は「評里制」、8世紀以後は「郡郷制」が敷かれたことを発表し、現在では通説として定着しています。
通説に従うと、『日本書紀』が記す「國郡の造長、縣邑に稲置の設置」は、不可思議な記述です。
本来は「國に国造、評に評造、縣邑に里長」が任命されたのでしょう。
4.宮と陵墓
不思議なことに『日本書紀』は贈成務天皇の宮を記していません。他方、『古事記』は志賀の穴穂宮(あなほのみや)と記しています。
志賀の穴穂宮とは、琵琶湖西岸の穴太郡(あのうぐん)付近とみられ、同地域は天足彦こと日子坐王の家臣であった和邇氏の支配領域と推測されます。
さらに稚足彦こと贈成務天皇を祀る神社が管見に見当たらないことも不思議です。
贈成務天皇は九州王朝特務機関長という任務の特殊性から、その行動領域は徹底的に秘されていたのかもしれません。
陵墓は倭國の狭城盾列陵(さきたてなみりょう)とありますが、推測に過ぎません。
写真 志賀穴穂宮推定地 滋賀県大津市穴太(あのう)
出典:Wikipedia(2021/10/23 15;46)
図 「神々の系図-平成12年考」
次回は「仲哀天皇」です。