キーワード
○天豊津姫命とは
○思わぬ不運に見舞われる天豊津姫
○豊玉彦と共に東国へ
○天豊津姫のその後
はじめに
『日本書紀』は懿徳天皇の皇后天豊津媛命の父を安寧天皇の第一子息石耳命(オキソミノミコト)とし、母の記述はありません。
『古事記』では、懿徳天皇の皇后を師木縣主の祖賦登麻和訶比売命、亦の名飯日比賣命とし、皇后の父母の名を記述していません。
師木縣主の祖は、「百嶋神社考古学」では、“大幡主こと贈安寧天皇(正統な天皇ではなく贈られた天皇)”としています。
おそらく、太安万侶は「師木県主の祖師木津日子玉手見命が白族統領大幡主」であることを知っていたと推測します。
「種明かしをしているのに見抜いたらどうだ。」といわんばかりです。
私が調査した限りでは、賦登麻和訶比売命、亦の名飯日比賣命を祀る神社は見当たりません。
したがって、故百嶋氏が指摘するように「懿徳天皇の皇后は天豊津媛命」と考えます。
蛇足ですが、『日本書紀』が記す天豊津媛命の父息石耳命は名に「耳があり、阿蘇耳族の人物」と考えられます。
1.天豊津媛とは
故百嶋氏が作成した「神々の系図-平成12年考」から検証してみましょう。
表 天豊津媛を中心とする家系図
名前 | 血縁関係 | 生年 | またの名など |
高木大神 | 祖父 | AD124年 | 高皇産霊尊 |
賦登麻和訶比売命 | 祖母 | ? | ? |
豊秋津媛 | 叔母 | AD146年 | 速秋津姫・宇奈伎比売 |
天忍穂耳命 | 父 | AD150年 | 草部吉見神・贈孝昭天皇 |
𣑥幡千千姫 | 母 | AD151年 | |
天豊津媛命 | 本人 | AD165年 | 略奪後は阿蘇津姫に改名 |
天忍日命 | 実弟 | AD170年 | 興津彦 |
懿徳天皇 | 最初の夫 | AD154年 | 大倭彦 |
孝霊天皇 | 御子 | AD178年 | |
建盤龍命 | 略奪者 | AD156年 | 手研耳命 |
雨宮姫 | 御子 | AD179年 | 父は建盤龍命 |
注)生年は故百嶋氏の推定
(1)父草部吉見こと天忍穂耳命別名海幸彦
草部吉見は阿蘇耳族統領の座を腹違いの弟建盤龍命(タケイワタツノミコト)に譲り、九州王朝の武官として活躍し、後には重臣へと出世します。
最初の妃は𣑥幢千千姫で、御子は天豊津姫・天忍日命です。
二番目の妃はスサノオと阿加流姫との御子市杵島姫で、御子は神大市姫別名罔象女です。
三番目の妃は金山彦と埴安姫別名草野姫の娘櫛稲田姫で、御子は武内足尼(タケウチスク二)別名瀛津世襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)と岐神(クナトノカミ)こと長髄彦です。
四番目の妃はスサノオと神大市姫別名罔象女の娘志那津姫別名天細女で、御子は御年神こと贈孝安天皇です。
天忍穂耳命が𣑥幡千千姫と別れた理由は、九州王朝による“パワーバランス”の結果です。
二人は仲睦まじく壱岐島へ新婚旅行に出かけました。その痕跡が
手長日賣神社 長崎県壱岐市勝本町本宮西触
ご祭神 𣑥幡千千姫・天忍穂耳尊
(2)母𣑥幢千千姫 その名を分解すると
①「𣑥」とは
梶の木(クワ科コウゾ族の落葉高木)
Wikipediaによると、枝の繊維は和紙の原料。古墳時代は𣑥樹(タクノキ)と呼ばれて木皮から木綿を作り、𣑥樹が豊富だった豊国の「柚富」の地名は是に由来します。古代から捧げる神木として尊ばれています。葉はブタ・ウシ・ヒツジなどの飼料として利用されました。
木綿から民生用の繊維製品が作られ、𣑥幢千千姫は「織物の女神」として称えられました。
②「幡」とは
船の「帆」としても利用されました。微風でも風を捕らえて船の航行を円滑化します。後に軍事用にも転用されたと推測します。
③千千姫(チチヒメ)
故百嶋氏によると「千千=乳」は九州王朝の忠臣であると指摘しています。
以上から、𣑥幢千千姫は「殖産興業開発に尽力した偉大な女神」であったといえま
す。
写真 珍敷塚古墳壁画 福岡県 うきは市吉井町富永
船の両舷に棒が立てられ、その間に帆が張られています。船の舳先には
陸を発見するための水先案内人の役割を務める鳥が描かれています。
2.思わぬ不運に見舞われる天豊津姫
皇太子出産後まもなく大事件が出来しました。
経緯は不明ですが、阿蘇耳族統領建盤龍命別名手研耳命(タケシミミノミコト)が皇后天豊津媛を略奪した事件です。
簡単に略奪を許したのは警備体制が杜撰だったことを物語っています。
それにも増して驚きなのは懿徳天皇が奪回軍を編成しなかったことです。
おそらく、奪回軍の呼びかけをしたと推測しますが、苦労知らずの懿徳天皇の政治・統治能力に疑問を抱いていた九州王朝の豪族は動きませんでした。
九州王朝に訪れた危機感を打開したのが卑彌呼の復位です。
卑彌呼は天豊津媛の実父播磨国を支配していた大歳神(=天之忍穂耳命)に相談します。
大歳神は略奪された娘が阿蘇津姫に名を改め、御子雨宮姫を出産していたことも知っていました。
そのため、周囲からは”天之毘理刀売(アメノヒリトメ)”と揶揄されていたことを知り、恥ずかしくてたまりませんでした。
注)毘理
おならの意味です。
早速、大歳神は卑彌呼と協議し、愚かな娘天豊津媛を救済するため、豊玉彦に娘を妃に迎え入れてくれるよう要請します。
豊玉彦はこの要請を受け入れ、阿蘇耳族の主家筋である高木大神の手を借り、阿蘇耳族を懐柔して建盤龍命を拘束し、ようやく天豊津媛は解放されました。
天豊津媛は、目出度く豊玉彦の妃に納まる事が出来ました。
3.豊玉彦と共に東国へ
故百嶋氏は死去する直前の講演会資料として以下のメモを遺されています。
「お騒がせ姫」
天豊津姫→阿蘇津姫→天比理刀咩→寒川姫→杉山姫
(1)天比理刀咩を祀る神社
安房国一宮 洲崎神社 千葉県館山市洲崎
主祭神 天比理刀咩命(アメノヒリトメノミコト)
合祀 天太玉命(=豊玉彦)・天富命(天太玉命の孫)
社伝によれば、祖母の天比理刀咩命を孫の天富命(アメノトミノミコト)が御手洗山に祀った社としています。
安房神社 千葉県館山市大神宮
上の宮
主祭神 天太玉命 相殿神 天之比理刀咩命・忌部五部神
下の宮
主祭神 天富命(アメノトミノミコト)・天忍日命(アメノオシヒノミコト)
注)天忍日命別名興津彦を天太玉命の弟神としていますが、天之比理刀咩命の実弟です。
社伝に依れば、天富命が天日鷲命の後裔を引き連れて、まず四国阿波へ渡り、開拓。その後、阿波国の忌部を引き連れて、当地へ上陸し、開拓。当地は良い麻が生育することから、総(フサ)の地と名付け、阿波国忌部の居住地を安房として、祖神として天太玉命を祀ったのが起源とされています。
この社伝には疑問があります。
大同二年(807年)、齋部広成によって編纂された 『古語拾遺』では、
「阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は東国により良い土地を求め、阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し、開拓を進めた。そして阿波の忌部氏が住んだ所は「阿波」の名を取って「安房」と呼ばれた。」とあります。
私見も徳島県の神社誌より、同様の見解です。
どうやら、忌まわしい名“天之比理刀咩命”を払拭できなかったようです。
注)安房国の領域
現在の館山市・南房総市・安房郡鋸南町全域と鴨川市の大部分
写真 洲崎神社 出典:館山市観光協会
写真 安房神社上の宮 出典:なでしころぐ
(2)寒川姫を祀る神社坂
下総国 寒川神社 千葉市中央区寒川町
主祭神 天照大御神・寒川比古命(=豊玉彦)・寒川比売命
天照大御神は後に合祀されたようで、本来は寒川比古命と寒川比売命の二
坐と考えられます。
ご神徳は古くから“海上安全の神”として信仰されています。
下総国へ移動後、ようやく忌まわしい名“天之比理刀咩命”を払拭できたようです。
相模国一宮 寒川神社 神奈川県高座郡寒川町宮山
主祭神 寒川比古命(=豊玉彦)・寒川比売命
同社は弥生時代末頃まで、相模湾が流入していたようです。
ご神徳は“八方除”とされていますが、古代は“海上安全の神”として信
仰されていたと推測します。
主祭神の寒川比古命(=豊玉彦)・寒川比売命の記憶は忘れられてしまったようです。
写真 相模国一宮 寒川神社 出典:寒川町HP
写真 下総国 「寒川神社の祭礼御浜下り」 出典:寒川神社HP
(3)杉山姫を祀る神社
江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、杉山神社が72社。現在は合祀などによ
り44社で、最も集中しているのは横浜市内です。
ご祭神は鎌倉時代以前から由緒を含めて不明となっています。
現在では、ご祭神候補として五十猛命・素戔嗚尊・大己貴命などが取り沙汰されています。
何故、このような事態になったのでしょうか。不思議です。
『延喜式』祝詞に「御殿(おおとの)御門帝」等の祭には、齋部氏(いんべし)の祝詞を申せ.。以外の諸祭には中臣氏の祝詞を申せ。」とあります。
その後、藤原氏の先祖、中臣氏は毎年六月・十二月に実施される『大祓詞』の宣読を担当することになり、中臣神道は大いに盛行しました。
注)齋部氏
朝廷の神事を掌る神祇官。祖神を天太玉命(=豊玉彦)としています。
詳しく記述するのははばかられますが、平安時代に神社のご祭神が変更されたと推測します。
杉山神社の本来のご祭神を探る上で、ヒントになるのが大國魂神社です。
大國魂神社 東京都府中市宮町
同社は、平安時代に国司が現代でいえば「業務の効率化・省略化」を図るために一度で済ませる「総社」を造立されたようです。方法は、代表的な神社を総社とし、または新たに総社とする神社を造立しました。
同社は六宮で構成されています。
六ノ宮 杉山神社 横浜市緑区西八朔町
主祭神を杉山大神としています。
杉山大神は、「杉山比古命と杉山姫」の二坐」 と推測します。
ところが、現地は以下のご祭神を祀っています。
主祭神 五十猛命 配祀神 大日龗貴命・素戔嗚尊・太田命
武蔵国を開拓した神は一ノ宮で祀られています。
一ノ宮 小野神社 東京都多摩市一ノ宮
ご祭神 天下春命(アメノシタハルノミコト =豊玉彦別名天太玉命)・瀬織津比咩命・伊弉諾尊・素戔嗚尊・大己貴神・瓊瓊杵尊・彦火々出見命・倉稲魂命
私見は、天下春命と瀬織津比咩命の二坐と考えています。
二ノ宮 二宮神社 東京都あきる野市二宮
主祭神 國常立神(大幢主命、豊玉彦の父)
別名天上春命(アメノウワハルノミコト)
三ノ宮 氷川神社 さいたま市大宮区高鼻町
主祭神 須佐乃男命・奇稲田姫命・大己貴命
ご祭神について、天保四年(1833年)当時の神主角井惟臣が顕わした「氷川大宮縁起」に
よるとしています。
おそらく、神主角井惟臣は『日本書紀』から、夫であった須佐乃男命をご祭神と勘違いした
のではないでしょうか。
「延喜式」神名帳では、一坐としています。
私見は、奇稲田姫命一坐と考えます。
写真 小野神社 出典:同社HP
美しい神社です。
写真 二宮神社 出典:ブログ美しい神社☆再訪したくなる神社
4.天豊津姫のその後
安房・相模国の神社では忘れられることもなく祀られていますが、武蔵国ではペシャンコです。
かろうじて、大國玉神社では「杉山大神」として祀られていますが、「杉山姫」の名は伝えられていません。
武蔵国で最も輝きを放っているのが櫛田稲姫別名瀬織津姫です。最大豪族の白(ペー)族と瀛氏(インシ)直系の血をひく櫛稲田姫は偉大な存在です。
此処で豊玉彦の六人の妃の御子の処遇について検証してみましょう。
表 豊玉彦の御子
名前 | 生年 | 母の名 |
豊玉姫 | AD165年 | 豊秋津姫別名宇奈伎比売 |
八心大市彦 | AD172年 | 神大市姫別名罔象女 |
鴨玉依姫 | AD179年 | 櫛稲田姫別名瀬織津姫 |
天日鷲翔矢命 | AD181年 | 天豊津姫・阿蘇津姫・寒川姫・杉山姫 |
神主玉命 | AD190年 | 武内足尼別名瀛津世襲足比売 |
武夷鳥命 | AD192年 | 木之花咲耶姫別名前玉姫 |
注)生年は故百嶋氏の推定
(1)二人の女神の御子
①豊玉姫
最初の夫彦火々出見命とは相思相愛の関係でしたが、「九州王朝の嫁さんの取り替え政策」
により、彦火々出見命と別れ、二番目の夫大己貴後の大國主とは不仲というよりも険悪でし
た。
彦火々出見命との御子、天稚彦(アメノワカヒコ)後の味耜高彦根命は孝霊・孝元天皇の御代
に九州王朝に仕え、“大矢口物部軍”を率いて軍事面で貢献し、その後土佐・大和国を支配地として
与えられ、最後の支配地出雲では、失政を犯し、終には出雲の支配を解かれたようです。
故百嶋氏は、講演会で味耜高彦根命は出雲で威張りはじめたと指摘しています。
その背景にあったのは、母豊玉姫の実家には曾祖父大幢主、祖父豊玉彦の存在だったと推測し
ます。
おそらく、統治能力に問題があり、民への圧政・暴虐振りであったと推測します。
その結果、民からは怨嗟の声が絶えず、九州王朝も対応を迫られ、遂に出雲の支配を解かれたの
でしょう。
ところが、味耜高彦根命を祀る神社を調査すると最周密地区は出雲国です。
阿須伎神社 島根県出雲市大社町 元出雲大社の摂社
主祭神 阿遅須伎高日子根命
配祀神 天稚日子命(阿遅須伎高日子根命の青年時代の名)
下照姫命(阿遅須伎高日子根命の妃)
由緒では、下照姫を妹としていますが間違いです。
下照姫の母は、スサノオが追いかけ回した“白石の女神と謳われた阿加流姫”です。下照姫も絶
世の美女と伝えられています。
②鴨玉依姫
最初の夫ウガヤフキアエズとの御子安曇磯良(アズミノイソラ)は九州王朝海軍の長として、軍
事だけではなく民生面でも活躍し、“初代住吉大神”後にその座を}開化天皇に譲り、表筒男として貢
献しました。
二番目の夫大山咋は少年時代から神童と謳われ、順調に出世街道をとげ、“真の大物主”として、孝
霊天皇を支えました。現在でも「金比羅宮・日吉大社」など多くの神社に主祭神として祀られていま
す。
(2)神大市姫別名罔象女の御子
最初の夫素戔嗚尊との御子、天細女命は皇大神宮下宮の主祭神豊受姫とし
て祀られています。
二番目の夫豊玉彦との御子八心大市彦(ヤゴコロオチヒコ)は、富山県黒部市
の八心大市彦神社に祀られていますが、現在では祭神の座を「大山祇神・少彦名神・軻遇突智
神」に塗り替えられています。
おそらく忘れ去れたのかも知れません。
(3)天豊津姫の御子
最初の夫懿徳天皇との御子は孝霊天皇です。
二番目の夫建盤龍命別名手研耳命(タケシミミノミコト)との御子は雨宮姫です。雨宮姫は
速瓶玉命(ハエミカマタマノミコト)後の大山咋命(オオヤマクイノミコト)との間に正統阿蘇
氏の後継者高橋命(タカハシノミコト)をもうけました。
三番目の夫豊玉彦との御子天日鷲命(アメノヒワシノミコト)別名天日鷲翔矢命(アメノヒ
ワシカケルヤノミコト)は、阿波忌部衆を率い、全国各地で産業振興に貢献し、“麻植神(オエノ
カミ)”として尊崇されています。
地名の麻植は“よく麻の実る地”として、全国に遺存しています。
天日鷲命を祀る神社
忌部神社 徳島市二軒屋町2丁目
同社は『延喜式』神明帳には「阿波国麻植郡忌部神社」を名神大社に列しています。
主祭神 天日鷲命
大麻比古神社 徳島県鳴門市大麻町板東字広塚
主祭神 大麻比古神 天日鷲命の子で阿波忌部の祖と伝えられています。
下之松原神社 千葉県南房総市白浜町滝口
ご祭神 天日鷲命・天太玉命・天富命・伊弉諾尊・伊弉冉尊
伊弉諾尊・伊弉冉尊は後世に合祀されたと考えられます。
図 「百嶋極秘神代系譜(部分)
(4)木之花咲耶姫の御子
最初の夫は瓊瓊杵尊で、家庭内暴力から逃げ出し、父大山祇命の計らいにより、豊玉彦の
妃として迎えられました。
二人の間に生まれたのが神主玉です。
神主玉を祀る神社
鴨大神御子神主玉神社 茨城県桜川市加茂部
ご祭神 別雷神(ワケイカヅチノカミ)・大田々根子神・主玉神
経緯は不明ですが、不思議なことに「神主玉の神」が削られています。
故百嶋氏は、「神主玉の後裔が橘氏一族の祖」と講演会で述べています。
皆さんは“源平藤橘”という歴史用語をご存知ですか。
「源は源氏、平は平氏、藤は藤原氏、橘は橘氏」の略語です。
平安時代に栄華を誇った藤原氏の次が橘氏ですから、その地位の高さが理解できると考えま
す。「姓は宿禰、後に朝臣」です。
祭神の別雷神は豊玉彦で、京都の賀茂御祖神社通称下鴨神社のご祭神、賀茂建角身命(カモタケヅヌミノミコト、別名賀茂別雷命)と同一神です。
大田々根子神は事代主の別名で、性癖は多くの神社のご祭神として潜り込むことで知られており、本来のご祭神ではありません。
(5)武内足尼別名瀛津世襲足姫の御子武夷鳥命(タケヒナドリノミコト)
武夷鳥命には多くの別名があります。
『古語拾遺―紀・播磨国風土記』に登場し、別名は「天之麻比止都禰命・天津麻羅・天目一箇命・一目連・天夷鳥命」などがあります。
片目だったことから、“鍛冶神”とする説もあります。
- 武夷鳥命を祀る神社
鷲宮神社 埼玉県久喜市鷲宮1丁目
別名「土師の宮」
ご祭神 天穂日命・武夷鳥命・大己貴命
私見は、天穂日命・武夷鳥命の二坐と考えています。
おそらく、“開拓神”として祀られたと推測します。
②一目連神(イチモクレンノカミ)を祀る神社
多度大社別宮一目連神社 三重県桑名郡多度町多度
主祭神 一目連神
天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)と同一神と考えられます。
片目が潰れていることより、“鍛冶の神”と関連付けられているようです。
③天目一箇神を祀る神社
薄野一目(ウスノヒトツメ)神社 熊本県山鹿市久原薄野
主祭神 天目一箇神
“鍛冶集団の神”として祀られています。
④天日名鳥命を祀る神社
天日名鳥命神社 鳥取市大畑字森﨑
ご祭神 天日名鳥命・素戔嗚尊(母武内足尼の父)
神紋は“二重亀甲に大”であることから、本来は「素戔嗚尊ではなく豊玉彦」を祀っていたのではないかと推測します。
野見神社 豊田市榊野町見切
ご祭神 天夷鳥命
社名から野見宿禰がご祭神と思っていましたが、意外でした。
木之花咲耶姫の御子武夷鳥命には、その名が示すように“武人”の側面があったと推測します。
その活動領域は、出雲・伯耆・関東地方に痕跡を遺しています。
おわりに
豊玉彦の六人の妃から誕生した御子のうち、四人が男子でした。
最も輝いたのは、天豊津姫の御子“天日鷲翔矢命といえましょう。
名の「鷲は鳥子(トリコ、紙すき和紙)」を意味します。
天日鷲命の足跡を辿ると、阿波忌部衆を率いた地には「紙すき和紙」の拠点が多く見られます。
また、名の“翔矢は弓を武器とする集団の長”を意味し、武力集団を併せ持っていたと考えられます。
おそらく、豊玉彦の後継者として関東地方を支配していたと推測します。
驚くべきことは、ユダヤとの関わりです。
阿波忌部が開拓したと推測される千葉・茨城県には“ユダヤ人と思われる埴輪”が出土しています。埴輪の用途は葬送儀式用とされています。
下記の写真は、千葉県山武郡芝山町の「芝山古墳群の姫塚古墳」から出土した埴輪です。
同古墳の築造時期について、五世紀~六世紀とされていますが、科学的知見はないようです。
写真 ユダヤ人埴輪 出典:芝山町HPより転載
写真 山高帽を被る長いあごひげを持つ武人像 出典:芝山町HP