キーワード
○大日孁とは
○故百嶋由一郎氏の「百嶋神社考古学説」
○大日孁貴こと卑彌呼の退位と復位
○大日孁貴を祀る神社
○邪馬臺国はいずこに
はじめに
『日本書紀 神代上 第四段 一書第十 岩波書店』に興味深い記事があります。
「イザナギ・イザナミ夫婦が大八洲國及び山川草木を生んだ後に、なんとかして天下を主導
する者を生まねばならないことに気づきます。」
そこで生まれたのが、日の神大日孁貴です。一書では天照大神と伝えています。
次に生まれたのが月の神で、一書では月弓尊・月夜見尊・月讀尊とし、次に蛭子、三歳になっ
ても足が立たず、それ故天磐櫲樟船に載せて風の順に放ち棄てる。次に素戔嗚尊を生む。」と
伝えています。」
皆さんがよく知っている「倭の女王卑弥呼」について、正史とされる『日本書紀』には一行
の記述もありません。また『古事記』にも記述がないのです。
謎と云うよりも不思議です。
ところが、『日本書紀 神宮皇后摂政三十九年』に以下の記述があります。
「この年(西暦239年)。魏志に云はく。明帝景初三年六月(西暦238年)、倭の女王、大夫
難升米等を遣わし、郡に到って、天子への拝謁を求めて朝獻す。太守劉夏、吏を遣わして京都に
詣らせた。」とあります。
同記事は、『日本書紀』編纂者による「倭の女王卑弥呼=神功皇后」と暗に示唆しているよう
です。
どうやら卑彌呼の活躍年代を三世紀と推測していたようです。
『紀』は神功皇后を開化天皇の曾孫とし、名を「氣長足姫尊(しなたらしひめのみこと)」と
記し、「卑彌呼」の名はありません。
したがって、「倭の女王卑弥呼≠神功皇后」という結論に達します。
どうやら、『紀』編纂者によって、見解が分かれているようです。
その原因は膨大な一書群の存在です。
鎌倉時代末期に成立した『釋日本紀 巻五術義 神代上』に以下の記述があります。
「公望私記云。或説甚非也。既云二大日孁貴一。又下文素戔嗚尊二謂之阿姉一。即是天照大神自
女神也。(後略)」
拙訳は「(矢田部)公望私記に云う。或説は甚だしくあらざる也。既に云う大日孁貴は素戔嗚
尊の姉なり。即ち.天照大神は女神也。」
鎌倉時代末期においても「大日孁貴=天照大神」という認識は変わらなかったことが窺えます。
また、トンデモ説も巷間で流布されていたことも窺えます。
トンデモ説はどのような説だったのか、気になりますね。
学問好きな江戸時代の民間歴史学者は「大日孁貴は後の天照大神」であることに気づいていた
ようです。
注)『釋日本紀』
卜部兼方の父兼文が文永元年(1264)又は建治元年(1275)に前関白一条実経らに講義し
た「日本紀講莚」を卜部兼方が編纂。
「公望私記」
延喜四年(904)に開催された日本紀講莚に尚復として参加し「日本書紀私記」の一つであ
る「延喜公望私記」を顕わした。
写真 卑彌呼再現像 出典:大阪府立弥生文化博物館
1.大日孁貴とは
(1)『紀』が記述する両親
①両親
父:イザナギ、
母:イザナミ
また、大日孁貴=天照大神としています。
②弟神
『紀 神代上 第四段 一書第十』では、
弟神が三人いたことになります。
「弟神月の神である月読命を日に亜(つ)げり。以て日に配(なら)べて治(しら)
すべし。」とあります。
では、月の神月読命とは誰を指すのでしょうか。
全国の月讀神社の主祭神を検証すると「月読命(つきよみのみこと)」で共通していますから
月の神=月読命になります。
では、月読命とは誰でしょうか。
『紀―顕宗三年二月条』には、
「創建伝承では高皇産霊を祖とする“月神”は壱岐縣主に奉祭される。」とあります。
また、『先代旧事本紀巻第三天神本紀』では
「天月月神命は壱岐縣主祖」とあることから、
月神=高皇産霊=壱岐縣主の祖という関係になります。
ところが、厳密に言うと壱岐島では高皇産霊を祀る神社は存在しません。
歴史学者が根拠とする
高御祖(たかみおや)神社 壱岐市芦辺町諸古仲触
ご祭神:高皇産霊神・伊弉諾尊・伊弉冉尊
尊敬するブログ“玄松子の記憶”によると「延宝(1673~1681年)の式内社査定以前では熊野権現・熊
野三社権現と称しており、熊本という地名に鎮座していたが、どういう理由か社名がいつの間にか高
御祖神社に変更され、あろうことか式内社とされている。」点について大いなる疑問を呈されてい
ます。
私見も同様で『紀―顕宗三年二月条』記事は“本来は格式の高くない高皇産霊神をより上位神とする
ための創作記事と推測します。
すなわち「神の下克上」と考えています。
③天照大神の御子神
ア.スサノオと御子神の交換前 三女神
多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命
ィ.スサノオと御子神交換後 五男神
・正勝吾勝勝速日天之忍男耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
・天之菩卑能命(あめのほひのみこと)
・天津日子根命(あmのひこねのみこと)
・活津日子根命(はえつひこねのみこと)
・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)
ア・イの御子神は、どちらが真の天照大神の御子神なのでしょうか。
2.故百嶋由一郎氏の「百嶋神社考古学説」
(1)大日孁貴の父
父は倭国王「師升」としています。
師升とはどのような人物だったのでしょうか。中国史書から検証してみましょう。
- 『後漢書』 著者笵曄(398~445年)編集
「本紀」「安帝永初元年(107年)冬十月 倭國遣使奉獻」
「列伝」「安帝永初元年 倭国王師升等獻生口百六十人 願請見」
以上から、師升は倭国王であることが認められます。
- 『韓苑』 『後漢書』からの引用 唐の張楚金により660年編纂
「後漢書曰 安帝永初元年倭面上國王師升至」とあります。
拙訳は「後漢書曰く。安帝永初元年に倭を代表する國王師升が(後漢の都洛陽)に至り
(安帝王に謁見す。」
「面上」の解釈について、歴史学者は「面上は面土の誤記」と指摘していますが、果たして
そうでしょうか。
私見は「面は貌(かお)、上は代表する」と読み、転じて「面上を代表者」と解釈しました。
「倭面上國王師升」と表記した理由について、同記事に先立つ記事
「建武中元二年(57年)倭奴國本朝賀 使人自称大夫倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢の光武帝から賜わったとされる「漢委奴國王金印」に関する記事です。
建武中元二年(57年)記事について、歴史学者は「倭奴國は後漢と私通した。」とする説です。
すなわち、倭奴國王は倭國王ではなく仮冒したもので後漢が騙された」とする説です。
本当にそうでしょうか。
私通したとするならば、後漢はなぜ「金印」を授与したのでしょうか。
是に対して、歴史学者の解答は「後漢が騙された。」としていますが、そのような例を中国史
書から指摘したのでしょうか。
現在に至るまで、先例を提示していないのが実情です。
私見は、歴史学者による苦し紛れの思いつきに過ぎないと考えています。
安帝は光武帝時代の事跡を踏まえ、これを訝しみ「倭面上國王師升」としたのかも知れません。
故百嶋氏は講演会で以下のように発言しています。
倭奴國王(当時は君長と呼ばれていた)は神産巣日命こと大幢主の先祖「白川伯王(『記』では、
大国主の祖父刺國大神として記述)」が倭人の君長として君臨していました。
その後、「白川伯王家は呉の太白太子の末裔「大率姫氏(だいそつきし)師升」に君長の座を譲
られました。」と述べています。
禅譲した時期について言及されていませんが、おそらく二世紀初頭、と推測されます。白川伯王は
君長の座を大率姫氏の師升に譲りました。
倭面上國王師升は、安帝永初元年(107年)冬十月安帝に謁見してその経過を報告したのではないか
と推測します。
君長に推戴された師升は、積極的に有力豪族との宥和を諮るため、婚姻(当時は通婚でした)政策を
進めたと推測します。
その具体例が、前君長白川伯王の娘神玉依姫(大幢主の姉)並びに大伽耶姫(許氏、高木大神の叔
母)との婚姻が結ばれました。
故百嶋氏の講演会録及び同氏が作成された「神々の系図-平成12年考」に見えませんが、他の有力
豪族との婚姻が進められたと推測します。
表 大日孁貴を中心とする家系図
名前 | 血縁関係 | 生年 | 別名など |
師升 | 父 | ? | |
神玉依姫 | 師升の正妃 | AD122年 | |
大伽耶姫 | 母 | ? | 高木大神の姨 |
大日孁貴 | 本人 | AD124年 | 後の天照大神 |
神武天皇 | 弟 母神玉依姫 | AD134年 | 神倭磐余彦 |
高木大神 | 最初の夫 | AD124年 | 高産霊神 |
𣑥幢千千姫 | 父 高木大神 | AD151年 | |
大幢主 | 二番目の夫 | AD122年 | |
彦火々出見命 | 父 大幢主 | AD152年 | 山幸彦など |
瓊瓊杵尊 | 父 高木大神 | AD157年 |
注)生年は故百嶋氏の推定、
- 北宋版『通典』 唐の社佑により801年成立
「後漢書曰 安帝永初元年有倭面土國王師升至」
私見は「倭面土國は、倭面上國の誤記」と推測します。
(2)大日孁貴の母 大伽耶姫
紀元前後に「越智族金海(キメ)金氏」によって建国された「金海伽耶国」の分国として、一世紀
初め頃に「大伽耶国」は建国されたと推測します。
版図は現在の大邱市・高霊郡を取り囲む地域と推測します。
初代国王はイスラエル系倭族の「許氏」で、主人筋の金海伽耶国王金越智(日本名宇摩志阿斯訶備
比古遅(うましあしかびひこち)の後を追い、長崎県北高来郡に上陸し、経緯は不明ですが阿蘇族
を支配下に置き、朝倉地域に支配を確立しました。
大伽耶姫と倭国王師升の出会いは、朝鮮半島であったかも知れません。
大伽耶姫と高木大神は叔母と甥の関係になります。
(3)大日孁貴の出生地
故百嶋氏は、現在の福岡市南区大字桧原(ひばる)周辺と指摘しています。
また「桧原の意を最も尊い岡」と指摘しています。
同地の標高は、「標高海抜ナビ」によと、標高海抜223.7㍍です。
図 福岡市南区大字桧原周辺地図
(4)大日孁貴の御子
①高木大神との御子
・𣑥幢千千姫(たくはたちちひめ)
阿蘇族「多氏」統領草部吉見(かやべよしみ)こと天忍穂耳命との間に天豊津姫・興津彦別名天忍
日命の二子。
名の「千千は乳とも表記」 転じて大率姫氏の忠臣を顕わす。
注)娘の天豊津姫は懿徳天皇の皇后であったが、阿蘇族建盤龍命こと手研耳命に略奪される。
・瓊瓊杵尊
母卑彌呼が女王に即位後、支配地を与えられた瓊瓊杵尊は威張り始め、父高木大神の主人筋にあ
たる大山祇命の娘コノハナサクヤ姫を娶るものの、后に対するDV(ドメスチックバイオレンス)も
重なり、九州王朝から追放されたようです。一説ではコノハナサクヤ姫を強奪したとの伝承が囁か
れています。
②鹽土の翁こと大幢主との御子
山幸彦後の彦火々出見命
経緯は不明ですが、卑彌呼は長らく彦々出見命を御子として認知していませんでした。彦火々出見
命と天細女命後の伊勢神宮外宮様豊受姫との御子壱与を卑彌呼宗女として女王に即位する際に、よ
うやく実子として認知しました。
その際に豊玉姫等の協力もあったようです。
3.大日孁貴こと卑彌呼の退位と復位
西暦180年前後に、卑彌呼は高齢を理由に神武天皇の嫡男で甥の大倭彦後の懿徳天皇に位を譲
りましたが、重大事件が直ぐに出来します。それは、「建番龍命別名手研耳(たけしみみ)によ
る皇后天豊津姫の略奪」事件です。
不甲斐ない懿徳天皇は皇后奪回の行動を起こしませんでした。
弟の神武天皇に続き、甥の懿徳天皇の不始末な行為は「九州王朝にとって政治的なしくじり。」
といえましょう。
すなわち、皇后に対する軽視は皇后の実家も軽視したことになるからです。
・神武天皇の皇后アイラツ姫は神沼河耳命に下賜
皇后の実家は父瀛氏統領金山彦・母は越智族統領大山祇命の妹
・懿徳天皇の皇后天豊津姫は建盤龍命に略奪
皇后の実家は父草部吉見別名天忍穂耳命・母は許氏高木大神の娘
懿徳天皇の「政治的しくじり」に激怒した卑彌呼は解決策として、懿徳天皇を退位させ
自らが復位することによって、政治的動揺を回避しました。
4.大日孁貴を祀る神社
(1)夫高木大神と共に祀る神社
鷂天(はいたか)神社 福岡県朝倉市上浦
ご祭神:高皇産霊命(=高木大神)・大日孁貴命
写真 鷂天神社由緒板 出典:神社めぐり
(2)夫埴安命(=大幡主)と共に祀る神社
鷂(はいたか)天神社境内社「大神社」
ご祭神:埴安命(=大幢主)・大日孁貴命
二人の夫と共に祀る珍しい神社です。
井田原神社 福岡県糸島市志摩井田原
現在のご祭神:国常立命(=金山彦)・天照皇大神
経緯は不明ですが、江戸末期に現在のご祭神に変更されたようです。
旧社名は十六(=地禄)神社、地禄神と地主神の意です。
本来のご祭神は埴安命(=大幢主)と大日孁貴と推測します。
おそらく江戸時代末期に民間歴史学者により、地主神は伊都国王「金山彦」に変更した
と推測されます。
油比(ゆび)神社 福岡県糸島市油比
現在のご祭神:国常立命(=金山彦)・天照皇大神
井田原神社と同様に本来のご祭神は埴安命(=大幡主)と大日孁貴と推測します。
荻浦(おぎうら)神社 福岡県糸島市荻浦
現在のご祭神:国常立命(=金山彦)・天照皇大神
井田原神社と同様に本来のご祭神は埴安命(=大幡主)と大日孁貴と推測します。
(3)大日孁貴を単独で祀る神社
驚くことに愛知県内で二社発見しました。
日長神社 愛知県安城市高木町鳥居
社号標に式内社とあります。また地名も興味をそそられます。
同社境内に公民館がありましたが、不在でした。その後も調査を続けましたが、由来や由緒
は不明でした。ご祭神の「大日孁貴命は天照大神」であることを説明し、理解していただきま
したが「大日孁命=卑彌呼」説には驚いていました。
写真 安城市日長神社社号標 出典:
津島神社境内末社 大日孁社 津島市神明町
ご祭神:大日孁貴命
小学校時代の夏休みに同社境内でよく遊びましたが名前は読めませんでした。
つい最近同社を訪ね、ご祭神を確認しました。
5.邪馬臺国はいずこに
故百嶋氏は「この戦い(長髄彦の叛)の間、卑弥呼は難を逃れて宮崎県西諸県郡姫原(ひめは
る)地区の“耶馬臺國(やまたいこく)”に避難した。」と講演会で述べています。
「姫原地区は 大山祇一族が支配する地でしたが、その後藤原氏によって“高原(たかはる)”に
地名変更された。」とも述べています。
図 宮崎県西諸縣郡の位置 出典;Wikipedia(2021/09/2614:00)
黄色部分は西諸県郡・緑色部分が「高原」地区
おわりに
大日孁貴こと卑彌呼の一生の大半は弟神武天皇・甥の懿徳天皇の不始末から生じた 政治的動揺を
鎮めることでした。
倭国大乱の折、図らずも“邪馬臺国”に逼塞した時期は心理的不安で心の安らぎは得られなかったと
推測します。
彼女を力づけたのは“タノカンサー”こと大幢主と大山祇の同盟関係のお陰だったと推測します。
九州各地に広がる「天神社(てんじんじゃ)、地名+天神社」は、女王卑弥呼を支えた大幢主と
大山祇を祀る神社と推測します。
女王卑彌呼は宗女壱与にその座を継承し終えたあと、ひっそりと一生を終えたのではないでしょ
うか。
次回は「第十一話壱与(1)」です。