第百四十三話  「壬申の乱」(1)

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写真 醒ヶ井宿「梅花藻」の見える風景

 

○天智天皇崩御

○天武天皇の挙兵と経路

 

1.天智天皇崩御

・天智十年冬十月十七日条

病に伏した天智天皇は蘇我臣安麻呂を東宮のもとに遣わし、「東宮(とうぐう)に鴻業を授ける」との勅令を命じますが、大海人皇子はこれを辞退し、出家の上、法服をまとい、吉野宮に入ります。

・天智十年二十三日条

左大臣蘇我臣赤兄臣・右大臣中臣金連・巨勢人臣・紀大人臣・大納言蘇我臣果安は、殿下(大友皇子)に従うことを誓います。

彼ら五人は大海人皇子の吉野宮出立の際に見送ります。

・天智十年十二月三日条

天智天皇近江宮で崩御。

 

2.天武天皇の挙兵と経路

(1)挙兵の準備

指揮官朴井連雄君を美濃国に迎え、天智天皇の山科陵造営の人夫と称して、兵を徴発し、軍備を整えます。

此処で、日本書紀編纂者は唐の進駐軍撤退記事を糊塗するため「天智天皇十年(671年)七月十一日から天武即位前紀(672年)夏五月十二日」に書き改めます。

その意図は明確で、「唐進駐軍の撤退と壬申の乱」が連動していることを隠すためです。

また、近江京から倭京に至るまで斥候を配し、宇治の橋守に命じて糧食を運び込みます。

(2)挙兵に当初から参加した人々

草壁皇子・忍壁皇子・及び舎人朴井連雄君・縣犬養大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚桜部臣五百瀬・書首(ふみのおびと)根摩呂・書直(ふみのあたひ)智徳・山背直小林・山背部小田・安斗連智徳・調首(つきのおびと)淡海の類二十有餘人、女孺子十有餘人。

(3)挙兵の体制作り

・天武即位前紀六月二十二日条

村國連男依(むらくにむらじおより)・和珥部臣君手・身毛君廣に速やかに美濃国に入り、戦略上の重要拠点を築き、兵を興し、また、国司等に触れて、不破道を塞ぐことを命じます。

村國連男依は美濃国の豪族ではなく、美濃・尾張両国の境界線上に位置する地方豪族です。

村国真墨田神社 岐阜県各務原市鵜沼山崎町

美濃国一宮の南宮大社(祭神:金山彦)と尾張国一宮の真清田神社(祭神:天火明命)

を合祀して創建された神社。後に村国男依が合祀されました。

写真 村国真墨田神社境内にある「村国座」出典:かかみがはらさんぽ

写真 村国座で上演される「子供歌舞伎」出典:各務原市HP

余談ですが、各務原市内と不破郡内の古墳は「前方後円墳」で共通し、同一氏族の文化圏と考えられます。

また、各務原市蘇原町には「伝蘇我倉山田麻呂の墓」があります。

・天武即位前紀六月二十四日条

「天武天皇、大分君恵尺(だいぶのきみえさか)・黄書造大伴(きふみのぞうおおとも)・逢臣志摩(あふのおみしま)を留守司高坂王の元へ遣わし、驛鈴を借り出すよう命じます。もし、借りることが出来なければ、恵尺は近江に行き、高市皇子・大津皇子を召喚し、伊勢で合流するよう命じました。」

結果は驛鈴を借り出すことが出来ませんでした。

驛鈴は「馬を借り出す許可証」と推測します。

高市・大津両皇子は、その時点でどこにいたかは不明ですが、近江の近くにいたと推測します。

正規のルートで脱出することができなかったため、彼らは別々に別れて以下のルートで脱出したようです。

①大津皇子

宇陀→名張→伊賀→柘植(伊賀市柘植)→甲賀→鈴鹿

大津皇子は鈴鹿の関を確保します。

②高市皇子

どのルートを辿ったのかは不明ですが、甲賀郡鹿深で大津皇子と合流します。

その後、両皇子は挙兵のために多くの将兵を確保していきました。

両皇子軍は鈴鹿から南下し、三重郡を経て朝明郡へと移動します。

其処に現われたのが天武天皇で、背後に控えていたのが東海・東山道の将兵でした。「天文遁甲」に優れた天武天皇の神出鬼没な行動です。

既に伊勢国以東の東国が天武軍に従ったことに、近江朝は動揺します。

(4)近江朝による反撃体制の方策

・東国への説得工作

おそらく尾張国への説得工作と推測されますが、説得工作は不調に終わったようです。

・佐伯連男を筑紫に派遣

栗隈王の二子、三野王・武家王に劔で威嚇され、説得を諦めます。

注)三野王

別表記に「美濃王・御野王」があります。

・樟使主(くすのきのおみ)を吉備に派遣

説得は不調に終わり、樟使主は吉備国當摩公廣嶋を斬殺。

・黄那公磐鍬(きなのきみいわすき)等を倭京に派遣。

説得の結果は不明です。

(5)高市皇子 不破にはいる。

・天武元年六月二十七日条

「高市皇子、使いを桑名郡家に遣わし、遠いところでは政治は行えません.近いところに移ってください。」と進言します。天皇、進言を受けて不破に入ります。高市皇子、和蹔(わざに 関ヶ原一帯)を出て天皇を迎えます。

同時に尾張國司守小子部連鍬鈎(ちいさこべのむらじさひち)、二万の衆を率いて不破国にはいります。

注)尾張国軍二万の将兵

「壬申の乱」後の、論功行賞対象者に記されていないので、おそらく日本書紀編纂者の潤色記事と考えられます。

(6)高市皇子 天皇の命を承けて近江朝征討を宣言する。

(7)征討軍の展開

①高市皇子軍

情報収集の結果、近江朝廷の主力軍は左右大臣及び御史大夫であることが判明したので、多くの将兵を率い、高市皇子軍は最前線の和蹔へ移動します。

天武天皇は高市皇子の「透察・行動力と言葉の力」を誉め、全軍の指揮権を授けます。

高市皇子軍は不破をで、法興寺の西に軍事基地を設営します。理由は、近江朝側が数万の部隊を不破の関周辺に集結している情報を得、近江朝軍の後方部隊を背後から攻撃し、兵站を遮断することにあったと推測します。

注)下線部は私の推測です。

高市皇子軍は、犬上川の畔(現在の彦根市周辺)で近江朝の後方部隊を指揮する山辺王軍を迎え撃つ体制を築きます。

近江朝軍で内乱が起こり、山辺王は蘇我臣果安・巨勢臣比等によって殺害されます。その結果、山辺王軍は自壊現象を起こし、将軍羽田公矢國、其の子大人(うし)等一族を率いて高市皇子軍に降伏します。

高市皇子は将軍羽田公矢國の能力を認め、斧鉞を授け、自軍の将軍に抜擢します。

高市皇子軍は、その後、近江国の北方三尾へと移動し、近江朝残党部隊を殲滅します。

以上が、日本書紀が記す高市皇子軍の行動経路です。

最も不可解な記事は、全軍の指揮権を授けられた高市皇子軍が、最前線である不破から犬上川河口へと転戦する理由が不明です。

私見は辻褄が合わないので「近江朝の兵站遮断」としましたが、どうみても高市皇子軍の行動経路は辻褄が合いません。

実際は、不破関で高市皇子軍が近江朝軍を迎え撃ち、勝利したと推測します。

日本書紀編纂者にとって「真の勝利者 高市皇子」を認めたくないようです。

②天武天皇軍

吉野宮から併せて三十有餘人を率い、東国に入ります。

東国とは、桑名郡家より西と推測されます。高市皇子の進言を受け入れ、不破宮へと移動します。

その後、天皇は高市皇子の移動に伴い、最前線の和蹔へ入りますが、直ぐに「野上(場所は不明)の行宮」に戻ります。

・天武元年秋七月二日条

天皇、紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置山始連兎等と共に数万の兵を率い、伊勢の大山を越え、倭に向かう。

また、村國連男依等に命じて、数万の兵を率いて、不破より出て直ちに近江に侵攻させます。

さらに多臣品治に命じて、三千の兵を甲賀に駐屯させると共に田中臣足麻呂に命じて、倉歴道(くらふみち)を守らせる。

注)倉歴道

伊賀・近江国境の要地

日本書紀編纂者は意図的に主語を曖昧にして記述しているので、わかりにくい文章となっていることにご注意ください。

天武天皇は自らが戦地に赴くことなく「終始、高みの見物」をしています。天武天皇は「戦後処理体制の構築」に思いを馳せていたのでしょうか。

③村國連男依軍

七月二日 近江國入り、息長の横河(現在の米原市醒井付近か?)の戦いで、近江朝の境部連薬将軍に勝利し、七月九日 鳥籠山(滋賀県坂田郡・犬上郡の丘陵地帯)で、近江朝の秦友足将軍に勝利します。

村國連男依は将軍に比肩する働きぶりですが、日本書紀編纂者は将軍と認めていないようです。

私見も同様で、各務原の小豪族に過ぎない村國連男依の活躍は、ある将軍の指揮の下で発揮されたと推測します。

息長の横河・鳥籠山は高市皇子が侵攻した犬上川河口付近と指呼の距離で、村國連男依は高市皇子の指揮下にあったと推測します。

④大津皇子軍

鈴鹿関を守っていた大津皇子のその後について日本書紀編纂者は全く記述していません。

これを不思議だと思いませんか。

注)鈴鹿関

東は伊勢湾に面し、西は鈴鹿山脈まで広がり、東国に通じる交通の要地

写真 醒ヶ井宿「梅花藻」の見える風景  出典:観光情報サイト 長浜・米原を楽しむ

 

 

次回は「壬申の乱」(2)です。

 

 

 

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