写真上 福岡県朝倉市山田「恵蘇八幡宮」 出典:同社HP
○『二中歴』が記す斉明天皇の在位年号「白雉九年」とは
○『二中歴』が記す斉明天皇の在位年号「白鳳元年(661年)」とは
○有間皇子の謀反
1.『二中歴』が記す斉明天皇の在位年号「白雉九年」とは
『二中歴』
白雉四年(655年)~白雉九年(660年)
白鳳元年(661年)
『日本書紀―斉明紀』は
斉明元年(655年)~斉明七年(661年)
白雉九年(660年)について『日本書紀』記事から検証してみましょう。
(1)斉明六年(白雉九年 660年)十月条
「鬼室福信、佐平貴智等を遣わし、(中略)救援軍の派遣と質となっていた王子余豊璋の帰国を求めた。」
注)鬼室福信(生年不詳~663年)
Wikipediaによると、鬼室福信は忠清南道扶余郷出身の貴族で、『三国史記―百済本紀』・『旧唐書(くとうしょ)百済伝』では、豊璋は662年5月に百済に入国し、このとき福信は王を迎えに出て、国政をみな委ねました。倭国はこの後福信宛に軍需物資を送り、福信も捕虜の唐人「続守言」等を倭国に送ります。7月、扶余豊は福信が自分を殺そうとしていることを察知し、逆にこれを殺した。
(2)斉明六年十一月条
「庚申の年八月 唐の将軍蘇定方により百済降伏。十一月に蘇定方により百済の太子隆・諸々の王子13人、大佐平沙宅等37人が洛陽へ送られるも皇帝は彼らの罪を許す。」
『旧唐書(くとうしょ)本紀 顕慶五年(660年)八月条』に
「蘇定方等は百済を討伐。王扶余義慈は捕らえられる。」とあり、上記(1)(2)の記事が裏付けられます。
(3)西暦660年、倭国は鬼室福信の申し出をどのように対応したのでしょうか。
伝統的に友好関係にあった唐と百済との間で「二者択一」を迫られたと考えられます。
決断する重大な要素は「情報収集能力」です。
残念ながら、倭国は「情報弱者」でした。その証左が「百済滅亡」を二ヶ月後に知ったのです。
また、「斉明紀五年七月」に
「小錦下坂合部連石布(いししき)・大仙下津森連吉祥(きさ)を唐に派遣しますが、漂流し、目的を果たすことが出来なかった。」と記していますが、実は二人は無事洛陽に到着しています。
『古代日本の対外認識と通交 著者森公章 1998年吉川川弘文館p97』
「第三代皇帝李治(在位656~661年)は、国家来年必ず海東の政(まつりごと)あらん。汝等倭客東に帰ること得ず。」と命を下し、彼ら二人は洛陽に留められ、百済への出兵計画が伝わらないように工作されます。
すなわち、唐に対する情報収集の道が遮断されました。
「情報弱者の倭国」は適切な判断が出来ませんでした。
最大強国「唐」に敵対して、戦いを挑むなど常識では考えられません。
太平洋戦争における「情報収拾作戦の未熟さ」故に日本軍は適切な判断能力を失い、終には米国軍による日本列島無差別爆撃、長崎・広島の原爆投下により、悲惨な結果を招きました。
倭国政府も「情報収集能力の未熟さ故に適切な判断能力」が欠けたまま、唐・新羅連合軍に挑み、最期は降伏の憂き目に遭ったのです。
もし、前年に唐と新羅による翌年の百済討伐計画を知っていたら、倭国は違った歴史の道を歩んだと推測します。
では、「倭国を滅亡に追い込んだ親百済派」はどのような政治勢力だったのでしょうか。
また、忘れてならないのは「任那復興への夢」が親百済派・親唐派を問わず存在したことも、倭国滅亡の大きな要因です。
2.『二中歴』が記す斉明天皇の在位年号「白鳳元年(661年)」とは
西暦661年は斉明天皇七年に該当し、主要な記事は
(1)是歳
「百済のため、まさに新羅討伐のため、駿河国に勅(みことのり)し、船を造らせたが、伊勢国多気郡麻積郷に差し掛かったとき、夜中に故なく舳艫が反り返る事故があり、百済が既に唐・新羅連合軍に降伏していたことを知る。」
同記事は、第一次百済救援軍派遣を思いとどまらせたことを示唆しています。
(2)七年春正月
「御船西に征きて、始めて海路に就く。御船大伯海に至る.時に大田姫皇女女子を出産(名は大伯皇女)。御船、伊豫の熟田津の岩湯行宮(いわゆかりみや)に泊る。」
同記事は、斉明天皇が避難場所を求めて御船を東に向け、現在の四国中央市付近に着岸した記事かもしれません。
(3)七年三月
「御船還りて那大津(博多湾)に至る。磐瀬行宮(いわせかりみや)に居ます。天皇、これを改めて長津と云う。」
(4)七年四月
「百済の福信、使いを遣わして上表文を奉る。その王子糺解(むげ 豊璋王)を(百済王に)迎えることを乞う。」
或本では「四月、天皇朝倉宮に遷り、そのまま居すと云う。」
(5)七年五月
「天皇、朝倉橘廣庭宮に遷る。この時に朝倉社の木を伐り、宮を造る。この所業に神は怒り、殿を壊す。また、宮中に鬼火が現われ、大舎人及び諸々の近臣は病み、死者が多く出た。」
朝倉橘廣庭宮の比定地として、朝倉市山田の「恵蘇(えそ)八幡宮」が候補にあがっていますが、「宮」の痕跡を窺わせる遺構も発見されていません。
宮中で多くの死者が出た理由は、宮廷内の「権力闘争」を窺わせます。
(6)七年六月
「伊勢王薨去」
「薨去」とは、皇族または三位以上の貴人が没した際に用いられる表現です。
伊勢王の素性について、日本書紀は記述していません。
一般的には、皇太子以外の皇子と考えられますが、日本書紀は孝徳天皇の皇子を有間皇子一人としています。
同記事は(4)の記事と連動し、「権力闘争」の結果、「伊勢王が薨去された」記事かもしれません。
(7)七年七月
「天皇、朝倉宮で崩御。」
(8)七年八月
「皇太子、天皇の喪を奉り、磐瀬宮に還る。この夜に、朝倉山上に大笠を被った鬼が現われ、葬儀の様子をうかがっていました。その様子を見ていた人々は皆怪しみました。」
日本書紀は皇太子を中大兄皇子として記述していますが、皇位継承順位を考えると中大兄皇子は該当しません。
では、この皇太子は誰でしょうか。創作記事かもしれません。
写真 福岡県朝倉市山田「恵蘇八幡宮」 出典:同社HP
同社の背後が「御陵山」です。
写真 恵蘇八幡宮本殿 出典:同社HP
以上の記事から、鬼室福信による「百済復興の救援軍要請」に対する回答もなく、斉明天皇は国の難局に「我、関せず」という有様は異様だと思いませんか。
3.有間皇子の謀反
(1)四年冬十一月
留守官蘇我赤兄臣、有間皇子に「天皇の治らす政治(まつりごと)には、三点の誤りがあります。」と囁きます。その三点とは
①大きな倉庫を建て、民から多くの調(税金)を集めていること
②狂心渠(たぶれごころのみぞ)と称される長い溝を掘り、多くの公糧を費消していること。
③船に石を運び積みて丘にすること
以上、いずれも「戦時体制」に備えた施策と考えられます。
①の目的は、正倉に米や糧食を備蓄する
②・③の目的は唐・新羅連合軍侵攻に備えての防御態勢の構築で、具体的には「木桶の設置と土塁の嵩上げ」と考えられます。」
また、博多側に大きな濠が造られています。
博多の観光スポット「大濠公園」は、この工事による地名由来と推測します。
図 「前畑土塁と水城の編年研究概況 出典:大野城市HP
「木桶」とは、太宰府側にある水路から地下を通して博多川の濠に水を流すための導水管です。
図 水城の構造 出典:大野城市HP
有間皇子は、蘇我赤兄に心を許し、「年が明けたら兵を用いるべき時なり」との決意を打ち明けます。
その夜、蘇我赤兄は物部朴井連鮪(ものべのえゐのむらじしび)を派遣し、有間皇子の味経宮(あじふのみや)を取り囲み、次に驛使を天皇の元に派遣し、「守君大石(もりきみのおおいわ)・坂合部連薬(=物部薬)・盬屋連鰤魚(しおやのむらじこのしろ)」を捕らえ、斉明天皇が滞在する紀温湯へ送ります。
この事件は、明らかに蘇我赤兄によって仕組まれた「有間皇子追い落としの罠」と推測されます。
伝承では、有間皇子は病気療養のため「牟婁の湯」に滞在中でした。
「紀温湯・牟婁の湯」は現在の白浜温泉で、斉明天皇と有間皇子は指呼の距離に滞在していたことに成り、同事件はなかったことになります。
『日本書紀』編纂者は、どこまでも蘇我氏を悪人扱いしていますね。
写真 和歌山県西牟婁郡白浜町「熊野三所神社」 出典:らくらく湯旅
有間皇子縁の神社
ご祭神:伊弉諾尊・速玉男命(=大幡主)・事解男命(=金山彦)
おそらく、伊弉諾尊は後世に合祀されたと推測します。
写真 自然が造った和歌山の奇岩「通り抜け奇岩」 出典:らくらく湯旅
(2)皇太子(中大兄皇子)による有間皇子への「尋問」
皆さん、よく考えてください。男系を尊ぶならば、この当時の皇位継承順位第一位は有間皇子です。
他方、中大兄皇子は皇位継承順位では末端に属します。
二人の関係から、有間皇子は「謀反の尋問」を受ける立場にありません。
尋問開始から直ぐに有間皇子は処刑され、同皇子に与した人物は流刑に処されました。
おそらく、同事件は「倭国内で起きた派閥の対立」に構想を得た創作でしょう。
次回は「天智天皇」(1)です。