○和風諡号 天豊財重日足姫天皇
○皇極天皇の経歴
○百済と新羅の情勢
○蘇我蝦夷と入鹿親子
1.和風諡号 天豊財重日足姫(あめのとよたからいかしひたらしひめ)とは
「天は九州王朝大王阿毎(あめ)氏」、「豊財は、九州王朝分家の豊国大王家の徽(しるし)」
Wikipedia によると「重日は歴注、古来、中国では3月3日上巳、5月5日は端午、7月7日は七夕、9月9日は重陽というように、月の数と日の数と重ねた重日をたいせつな節供」とありますが、全体では意味をなしません。
『日本書紀―岩波書店』の校注を担当した高名な歴史学者の方々も、説明を避けているほどです。要するにわからないのです。
皆さんがご承知のように皇極天皇は後に重祚して斉明天皇になられます。
「二度、天皇の月日を重ねた」ことから「重日」という表現を『日本書紀』編纂者は採用したと推測します。
皇極天皇の和風諡号からいえることは、寶王女は「九州王朝分家の徽をもつ豊国大王家」の出身とも推測されますが、よくわかりません。
2.皇極天皇の経歴
第130話で紹介しましたが、繰り返します。
(1)生年は西暦594年
(2)最初の結婚
『日本書紀-斉明紀』によると「初めに、用明天皇の孫の高向日王に嫁ぎ、漢(あや)王子を生みます。」
理由は不明ですが、高向日王と別れます。
高向日王子を祀る神社 高向(タコウ)神社 大阪府河内長野市高向
本来のご祭神は高向王と考えられますが、現在は素盞鳴尊・蛭子神・天児屋根命・保食神・白山姫命が祀られています。
同社境内には「高向王の墓」の伝承を持つ墓があります。
御子の父高向王と共に漢王子の消息が不明なのは気に掛かります。
写真 「高向王の墓」 出典:ブログ南河内に何がある
(3)舒明天皇の皇后となる。
寶皇女が舒明天皇の皇后になった年は、舒明二年(630)ですから、寶皇女は数え年37歳で皇后に即位したことになります。
私見は、年齢から見て舒明天皇の皇后には疑問があり、本来は皇極天皇として即位していないと推測します。
おそらく、葛城皇子こと後の天智天皇を「貴種」とする道具立てとして創作されたのではないでしょうか。
当時としては高齢にも関わらず、二男・一女が生まれ、第一王子、葛城皇子後の天智天皇の生年は、常識的に見て631年以降と考えられますが、通説は推古三十四年(626)とあります。
『日本書紀』編纂者は葛城皇子の年齢操作を何故行ったのでしょうか。
また、皇子が中大兄皇子と呼ばれる理由は、兄が存在したことになりますが、『日本書紀』編纂者は、問題の兄についてなにも記述していません。
さらに『日本書紀―舒明紀十三年十月条』では、舒明天皇の薨去にあたり、東宮(とうぐう)開別(ひらきわけ)皇子が弔辞を述べます。
突然、葛城皇子は東宮(皇太子の別称)となり、名も開別皇子に変わります。
此処で注目すべきは「開別皇子の“別(わけ)”」です。
正統な九州王朝倭国の嫡流とは違い、庶流の「別(わけ)」の血筋であることを表明しているのです。
3.百済と新羅の情勢
(1)元年二月条
安曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣を百済の弔問使の元に派遣します。
舒明天皇薨去に伴う葬儀に対し、百済の弔問使が遅れている理由を糺すため情報収集に乗り出します。
ところが、百済義慈王の対応は、弔問使派遣をそっちのけにして、「塞上(豊璋を指す)の行いが悪いので、帰国させたい。」と願い出たのです。
この対応に驚いた(皇極)天皇は、真意を測りかね、その願いを撥ね付けます。
また、弔問使の従僕が云うには「大佐平智積が死亡。今年の正月には国主の母が薨去。また弟王子の子𧄍岐(ぎょうき)及び其の母と妹の女子四人、内佐平等名のある人四十人余りが嶋へ流された。」との情報を得ました。
Wikipediaによると、西暦642年、前年に即位した百済義慈王は、自ら兵を率い、新羅領の伽耶地方に侵攻し、40余りの城を奪取します。
翌643年、百済義慈王は漢城の奪回を目指し、国内では貴族中心体制を改め、専制・独裁的な強権体制を敷き、反対派の粛清を進めたとあります。
反対派の粛正は果敢に実施され、百済貴族の中心物でナンバー2の大佐平智積は死を与えられ、同じくナンバー3の内臣佐平岐味・弟皇子の𧄍岐等と共に流罪の刑を与えたと推測します。
『日本書紀』によると、百済義慈王の王子「豊璋」が人質として倭国に来朝したのは「舒明天皇三年三月条(631年)」とあります。
皇極天皇当時の百済は敵対国新羅領に侵攻し、伽耶地方を手中に収め、隆盛を極め、また敵対国新羅は642年淵蓋蘇文(えんがいそぶん)のクーデターにより、栄留王は100名以上の臣下と共に殺害されました。
そのような情勢下で、百済が王子豊璋を倭国に人質にする必要性があったとは思えません。
実態は「倭国への放逐」と推測します。同行したのは弟の勇(善光王子)でした。
その時期は、西暦643年と推測します。
『三国史記―百済本紀』によると、義慈王の王子に「𧄍岐王子」の名は見えず、義慈王の先代
武王の王子と記されています。
すなわち、𧄍岐王子は義慈王の異母弟です。
母は、百済貴族最高位の沙宅積徳の娘沙宅王后です。
義慈王の母は不明で、𧄍岐王子は百済貴族を代表するエリート。義慈王にとっては、「獅子
身中の虫」であったようです。
そのため、𧄍岐王子は母と四人姉妹と共に流罪の刑が与えられたのです。
流罪の地は倭国ではなかったようです。おそらく、彼らは過酷な運命にさらされたと考えます。
『日本書紀』は「塞上(=豊璋)は常に行いが悪い」と記述しています。
豊璋は常に行いが悪いのではなく、義慈王の政策に従わない反対勢力(百済貴族)に担がれる存在と義慈王は判断し、倭国へ放逐したと考えられます。
話の舞台はヤマトではなく九州です。
4.蘇我蝦夷・入鹿親子
『日本書紀-皇極紀元年是歳条』
「蘇我大臣蝦夷、祖廟を葛城之高宮に建て、八佾の舞を行う。」
蘇我蝦夷が意識する祖は「「祖父稲目・父馬子」と考えられ、祖父や父が「国見の丘すなわち甘樫の丘」で生活していたことから、祖廟を遠く離れた「葛城の高宮」に建設する理由は見当たりません。
祖廟建設地は「甘樫の丘」周辺と推測され、目的は「信仰の対象」にありました。
「八佾(やつら)の舞」の意は「佾(いつ)は周代の舞楽のきまり」で、転じて「八佾の舞は天子の舞」と解釈されます。
おそらく、蘇我蝦夷は「蘇我王家」の存在をアピールしたかったのです。
『日本書紀』編纂者は「蘇我王家の存在」を徹底的に、それも悪意を込めて誹謗中傷記事をこれでもかと濫発し、うんざりします。
また、ことごとくの国を挙げて、多くの人民を徴発し、あらかじめ雙墓を今来に造り、さらに、山背大兄皇子が預かる養育料目的の部「乳部」の民を集めて墓守人として使役します。
雙墓の所在地を「今来(葛上今木雙墓)としていますが、蘇我氏の祖廟と同様に『日本書紀』編纂者はわからなくする意図があったと考えらます。
蘇我蝦夷の墓は長らく発見されませんでしたが、2014年、偶然にも養護学校建て替え工事中に蝦夷
大臣の墓と推定される古墳が発掘されました。
(1)蘇我蝦夷の墓に比定される「小山田古墳」奈良県高市郡明日香村大字川原
写真 「小山田古墳」 出典:Wikipedia (2022/08/09 15:20)
発掘場所は甘樫丘の近くで、飛鳥時代最大級の「方墳」。一辺70㍍。石室の全体像は不明ですが、横穴式石室と見られています。出土品の瓦が豊浦寺に近いと云われています。
注目すべきは「羨道の長さ」で、8.7㍍以上で石舞台古墳の11.7㍍に迫る長さです。
墓域は東西72㍍、南北で推定70㍍周囲には濠が巡らされ、「石舞台古墳」と同規模と推測されています。
玄室は羨道部のみが残り、石室は跡形もありません。
どうやら、時の権力者によって破壊されたようです。
図 「小山田古墳」周辺地図
(2)蘇我入鹿の墓に比定される「菖蒲池古墳」橿原市菖蒲町
刳抜式家形石棺2基は非常に精巧な造りで、全国的にも特異な石棺。出土土器等から古墳時代終末期/飛鳥時代中頃の築造と推定されています。
同古墳は、当時としては破格の墓域を有し、築造から間もない7世紀末頃には、すでに墳丘の一部は破壊を伴う整地の実施が認められています。
墳丘は2段築成で、下段は一辺約30㍍、上段は一辺約18㍍の方墳。
周囲には濠が巡らされていました。
墓域は南北82㍍、東西約67㍍ですが、西側外堤を想定すると約90㍍
写真「菖蒲池古墳の刳抜式家形石棺2基」
次回は「皇極天皇」(2)です。