写真 江田船山古墳出土「金銅製飾履(こんどうせいしょくり))」
福岡県玉名郡和水町 出典:東京国立博物館
写真 藤ノ木古墳出土の「金銅製飾履」
出典:伊藤まさこ氏ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎 236藤ノ木古墳は本当に6世紀」
(文章を含む)
「盗掘を受けていないとされる藤ノ木古墳」の石棺には二人が埋葬されていました。とこ
ろが、死者が履く「金銅製飾履」ですが、二足の飾履(しょくり)は片方ずつが壊されてい
たそうです。冠も大帯も飾履も権威のシンボルですが、それを折りたたみ壊すことは権威の否
定という側面があるらしいのです。」
私見は、片足の飾履が壊された状態で発見されたことは、一度盗掘された可能性を指摘できます。
また、ほぼ完全な状態で発掘されたことは、同古墳が他の地より移転した「完璧な盗掘古墳」と指
できるのでは・・・。
故宮崎康平氏は「まぼろしの邪馬台国ー講談社刊p122~123 」で「完璧な盗掘古墳」の存在を指摘しています。
仁徳天皇は開化天皇の跡を継いだ正統天皇です。
○即位前の状況
○皇后・妃と皇子・皇女
1.即位前の状況
(1)大山守命の反乱
『記紀』並びに故百嶋氏説からは大山守命について検討してみましょう。
①『古事記』
大山守命は「山海の政(まつりごと)をせよ。」
大雀命は「食國(おすくに)の政をせよ。」
宇遅能和紀郎子は「天津日継(あめのひつぎ)を知らしめせ。」応神天皇の後継者を宇
遅能和紀郎子としています。
応神天皇崩後、天皇の命に違え、天下を奪うために弟の宇遅能和紀郎子を殺す計画を立
てます。
大山守命の計画を察知した大雀命は、先手を打ち、宇治の渡りで大山守命軍を殲滅し、
その屍を那羅山に葬ります。
②『日本書紀』
後継者に指名された莵道稚郎子は辞退し、弟の大雀命に位を譲ります。
皇位継承者になれなかった大山守皇子は、「弟大雀命を殺し、自らが帝位に昇る」ことを
宣言します。
大雀命は奇計を立て、未明に莵道の渡りから乗船した大山守皇子の船を転覆させ、葬りまし
た。
③故百嶋氏説「大山守命は、天皇の皇子ではない。」
天足彦こと彦坐王(ひこますおう)の後継者迦邇米雷王(かにめづちおう)と高木入比賣
との間に誕生したのが、大山守命としています。
大山守命が亡くなった「宇治の渡し」周辺が、彼の支配地と考えられます。
私見は、九州の高良玉垂宮に居住していた大雀命が、山代国まで遠征するはずもありません。
おそらく大山守命は、山代国の支配者「大幡主の後裔氏族和邇氏」に反乱を起こしたのが真相で
はと推測します。
大山守命を祀る神社
朱智神社 京都府京田辺市天王高ヶ峰
ご祭神:迦邇米雷王・須佐之男命・天照國照彦火明命・山代大筒城真若王、「朱智天王」
とも
伝承に依れば、仁徳天皇69年創建当初は筒城真若王と迦邇米雷王の二坐。
写真 京田辺市「朱智神社」 出典:神社巡遊録ブログ
表「大山守命」を中心とする家系図
名前 | 関係 | 生年 | またの名 |
山代大筒城真若王 | 祖父 | AD174年 | 建南方命 |
佐波遅姫 | 祖母 | ? | |
迦邇米雷王 | 父 | AD200年 | |
高木入比売 | 母 | ? | |
大山守命 | 本人 | ? | 筒城真若王 |
伊奢眞若王 | 弟 | ? |
(2)宇道稚郎子の処遇
故百嶋氏は、開化天皇の少年期に乳母豊姫(ゆたひめ)との間に間違いを起こし、誕生し
たのが宇道稚郎子としています。
仁徳天皇より5歳ほど年長でした。おそらく、いつまでも高良玉垂宮を離れないことが禍
し、「底意」を疑われ、殺されたのだと推測します。
2.皇后・妃と皇子・皇女
(1)『古事記』
①葛城曾都毘古(かつらぎのそつひこ)の娘石之日賣命((いわのひめのみこと)を娶り、御子
に大江の伊奢本和氣命(いざほわけのみこと)・隅江の仲津王・蝮(たじひ)の水歯別王
(みずはわけおう)・男浅津間若子宿禰(おあさづまわかこすくね)王の四柱。
石之日賣命は仁徳天皇の皇后でも妃でもなく、贈応神天皇こと誉田別命の正妃と推測され
ます。
御子は二人の別王と推測され、隅江の仲津王・男浅津間若子宿禰王は、別項で紹介しま
す。
②日向(ひゅうが)の諸縣君牛諸(もろあがたのきみうしもろ)の娘髪長比賣(かみながひ
め)を娶り、御子に波田毘能大郎子(はたひのおおいらっこ)またの名を大日下王(おおく
さかおう)・波田毘能大郎女(はたひのおおいらつめ)またの名を長日比賣命(ながひめの
みこと)またの名を若日下部王(わかくさかべおう)の二柱。
諸縣君(もろあがたのきみ)は大山祇(おおやまづみ)一族と推測されます。
髪長比賣は仁徳天皇の皇后で、長男の波田能大郎子またの名大日下王が仁徳天皇の後継者と
考えられます
波田毘能大郎女については、不明です。
③庶妹八田若郎女(しょまいはったのわかいらつめ)を娶る。御子なし。
④庶妹宇遅能若郎女(しょまいうじのわかいらつめ)を娶る。御子なし。
(2)『日本書紀』
①磐之媛命(いわのひめのみこと)を皇后とし、御子に大兄去来穂別(おおえいざほわけ)
天皇・住吉仲皇子(すみよしなかおうじ)・瑞歯別(みずはわけ)天皇・雄浅津間稚子宿禰
(おあさづまわかこすくね)天皇の四柱。
磐之媛命は贈応神天皇の正妃で仁徳天皇の妃ではありません。
御子のうち二人の「別天皇」が記されていますが、正統な天皇では無く、藤原氏によって贈
られた「別天皇であり贈天皇」です。
また、雄浅津間稚子宿禰天皇も、その名「宿禰」が示すようニ、正統な天皇ではありません。
②妃日向髪長媛(ひゅうがかみながひめ)を娶り、大草香(おおくさか)皇子・幡梭(はたひ
め)皇女の二柱。
妃日向髪長媛は、大山祇命の直系で仁徳天皇の皇后と推測されます。大草香皇子は仁徳天皇の
後継者と考えられ、その証左の一つが江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田)から出土した
「神人車画像鏡(じにんしゃがぞうきょう)」の鏡銘です。
図 「神人車画像鏡」の鏡銘 故百嶋氏読み下し
「大山祇(おおやまづみ)・神大市姫(かみおちひめ)・大己貴神(おおなむちのかみ)の子孫
尚盛(くさか)四面の鏡を作る。東多賀国人民安んじて暮らす。殊胡虜(とりわけこりょ)減
じ、天下また平穏になる。風雨時に節(かな)い、五穀熟す。両親は天の力を得て長命でめでた
く後世を楽しむ。簡(とく)にすることも無く雲に乗る。馳せ駆けて参賀す。四馬(しば)従
う。」
故百嶋氏は鏡銘にある「尚盛(くさか)」を仁徳天皇の皇子大草香王(大日下王とも表記)と
しています。
注)「尚盛(くさか)」について 参照:Weblio辞書
「尚」:以前の状態がそのまま続いているさま。以前の状態や他の同類のものと比べて
程度が進んでいるさま。
「盛」:力や勢いがさかん。さかえる。
「尚盛皇子」は、漢字の用法から父仁徳天皇を継承し、さらに九州王朝政権の基盤を強化拡大し
たことを自負した王と推測されます。
「胡虜」とは胡人の捕虜を指しますが、故百嶋氏は具体的に述べていません。
写真「江田船山古墳」 熊本県玉名郡和水町 出典:和水町の観光ナビ
墳丘62㍍、前方部高さ7.5㍍の前方後円墳
写真 江田船山古墳出土「家形石棺」 出典:同上
阿蘇凝灰岩(通称ピンク石)の切石を組み合わせた横口式家形石棺
目の前に見ることが出来ます。
写真 江田船山古墳出土「金銅製飾履(こんどうせいしょくり))」 出典:東京国立博物館
写真 藤ノ木古墳出土の「金銅製飾履」
出典:伊藤まさこ氏ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎 236藤ノ木古墳は本当に6世紀」 (文章を含む)
次回は「仁徳天皇」(2)です。