第八十六話  「空白の四世紀」

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写真 世界遺産「敦煌莫高窟」   出典:阪急交通社
敦煌の莫高窟が拓かれたのは、前秦の支配下にあった前秦建元二年(366)から始まり、元代まで約1000年にわたり、石窟の造営は続けられました。

写真 敦煌莫高窟   出典:セイナンSKY

鳴沙山の東麓の絶壁の上に、南北全長1600㍍の山腹に五段階に分けて数え切れない石窟が掘られ、櫛の歯のように並んでいます。

写真  莫高窟内部   出典:セイナンSKY

鮮卑族拓抜氏が建てた「前秦・北魏」は仏教を早くから受容し、仏教芸術が華やかに昇華しています。

もしかすると、仏教は北魏の時代に倭国へ伝来したかもしれません。

 

中国の歴史文献において西暦266年から413年にかけて倭国に関する記述がなく、歴史学会からは「空白の四世紀」と呼ばれていました。

この説に関して「中国史」から検討してみましょう。

○西暦266年から413年にかけての中国史

○西暦266年から413年にかけての朝鮮半島史

 

1.西暦266年から413年にかけての中国史

(1)魏(220~265年)

西暦265年司馬昭が死去し、其の権力を引き継いだ司馬炎により、第五代皇帝曹奐は禅譲

を強要され、魏は滅びました。

(2)西晋(265年~316年)

司馬炎が初代皇帝「武帝(在位265~290年)」として即位。280年、晋軍は江陵を攻略後、

呉都建業に侵攻し、孫皓は降伏し、中国は晋によって再び統一されました。

中国を統一後、司馬炎は急に堕落し、皇室内の権力闘争で多くの有為な人材を失いまし

た。司馬炎没後、跡を継いだ恵帝は暗愚で、皇族同士の内乱「八王の乱(301~311年)」を

招き、311年には「永嘉の乱」が勃発し、華北への異民族侵入が激化し、洛陽が陥落。

316年、前秦によって長安が陥落し、西晋は滅び、本格的に「五胡十六国時代」に突入し

ます。

『晋書』倭国伝

「魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼始遣使朝貢。(中略)江左歴晋、(劉)宋、齊、梁、

朝聘不絶。」

拙訳は「魏の景初三年(239)公孫文懿が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を朝貢。(中

略)江佐(歴代の南朝国家、江左は中国の地理的用語で長江下流域の南岸。現在の南京市を中

心とする江蘇省南部を指す)の、晋(西晋・東晋)、(劉)宋、齊、梁への朝聘(朝見して天子

に貢ぎ物を献上すること)が絶えなかった。」

歴史学者が唱える「空白の四世紀」には根拠がなく、倭国は南朝国家の「西晋(265~316

年)・東晋(317~420年)」への朝聘を欠かさなかったことになります。

図 西暦280年の西晋の領域 出典:Wikipedia(2021/10/29 17:00)

(3)東晋(317~420年)

西晋の皇族司馬睿によって江南に立てられた王朝。

『晋書』倭国伝によれば、

「秦始初、遣使重譯入貢」

拙訳は「(前)秦の始め、(倭国)が訳を重ねて朝貢した。」

おそらく西暦352年前後に倭国が(前)秦に朝貢したと考えられます。

すなわち、南朝王朝だけでなく、北朝の(前)秦にも朝貢していたことになります。

(4)前秦(351~394年)

中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた國。一時は華北を平定し中華統一を目指し

ましたが、南下して東晋に大敗。敗戦後は華北で諸国の自立と相次ぐ離反で滅亡しました。

図 「前秦と東晋の領土地図」出典:Wikipedia(2021/10/29 17:00)

(5)北魏(386~534年)

鮮卑族の拓抜氏によって建てられた国。383年10月、前秦が東晋に大敗して弱体化し、その

間隙を縫って386年独立。

太武帝は高句麗や宋と頻繁な外交を展開し、夏・北燕・北涼を滅ぼし、439年10月華北を統一

し、五胡十六国時代を終焉させました。

これにより、中国の南北朝時代を迎えます。

歴代の皇帝は仏教を篤く信奉し、5世紀末~6世紀初めに雲崗や龍門といった巨大な石窟寺院

が開かれ、唐代と並ぶ中国仏教の最盛期を迎えます。

図 5世紀中頃の「北魏」領土 出典:Wikipedia(2021/10/29 17:00)

2.西暦266年から413年にかけての朝鮮半島史

『日本書紀』、『三国史記』から検討してみましょう。

(1)百済

①贈応神天皇の外交記事

『日本書紀-応神天皇紀三年条』

「是歳、百済の辰斯王即位す。貴国の天皇に礼無し。故に紀角宿禰(きのつぬのすく

ね)・羽田矢代宿禰(はたやしろすくね)・石川宿禰・木莵宿禰(みみづくのすくね)を派

遣し詰問する。百済国辰斯王(しんしおう)を誅して謝罪す。紀角宿禰等、阿花を後継の

王として即位させ、帰国する。」

随分と強引な外交手法ですね。まるで百済国が倭国の属国扱いです。

ところが、同記事を裏書きするのが、『周書巻四十九・列傳第四十一異域上(百済國

条)』です。

「百済者、其先蓋馬韓之属国。夫餘之別種。有仇台者、始國帯方(郡)」

拙訳は「百済(國)は、其の先はおそらく馬韓(倭国の植民国家金官伽耶・任那国)の属

国であろう。扶余の別種なり。仇台(クデ)という者有り。始めて國を立てたのが(故地の)

帯方郡。」

注)『周書』は、「中国二十四史」の一書。唐の令狐徳莱らが太宗の勅命によって撰した

紀伝体の断代史。西魏・北周両朝の歴史を記録した正史。貞観十年(636)完成。

「贈応神天皇三年条」が記す登場人物について検証してみましょう。

ア.百済辰斯王

『三国史記-百済紀』では、第十六代辰斯王(在位385~392年)

イ.紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木莵宿禰

『日本書紀』が記す「武内宿禰の系図」によれば、上記四人の宿禰は武内宿禰の王子

としていますが、いずれも姓が違うのは武内宿禰には少なくとも四人の妃がいたことを

うかがわせます。

・長兄 紀角宿禰

百嶋神社考古学では、武内宿禰の父は孝元天皇、母山下影姫別名蘇我姫としていま

す。おそらく、紀角宿禰は父系の「大率姫氏=紀氏」を継いだと推測します。

・次兄 羽田矢代宿禰

おそらく羽田は「幡」で、母の「大幡主系血筋」を継いでいたと推測します。

・(蘇我)石川宿禰

百嶋神社考古学では「蘇我氏は瀛氏の裔」で、母山下影姫またの名蘇我姫の姓を継いだと推測します。

・木莵宿禰

「豊玉彦の後裔鳥子大神(天日鷲命と武夷鳥命)一族」は、それぞれ鳥を名前に冠していたようです。木莵は「ミミズク」の意で、木莵宿禰の母は「豊玉彦後裔鳥子大神」の一族と推測します。

写真  木菟(ミミズク)  出典:Wikipedia( 2021/10/29 17:00)写真はワシミミズク

フクロウ科のうち羽角(いわゆる「耳」がある種の総称)

ツクは「角毛」の総称。漢字表記の「木菟は樹上の兎」という意味です。

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四人の宿禰達の父武内宿禰の生年は「神々の系図-平成12年考」によるとAD222年ですから、彼らの

生年はAD240~250年頃で、活躍年代はAD260~290年前後と推測します。

したがって、「応神天皇三年条」記事は、彼らの活躍年代とおよそ100年以上の時間的隔たりがあ

ります。

何故、このような時間的隔たりがあるのでしょう。

答は明らかです。『日本書紀』編纂者にとって、中国史書『宋書』倭国伝が記す「倭の五王」と

の整合性を図るためでしょう。

ウ.百済王阿花(あか)

『三国史記-百済本紀』が記す、百済第17代阿莘王(在位392~405年)を指します。したがっ

て、第16代辰斯王はAD392年に殺されたことになります。

エ.百済が倭国の属国となった時期はいつか。

第13代近肖古王の姓名は解餘句(へよく)、第14代近仇首王の姓名は解須(へす)と記録さ

れていますが、第15代枕流王(とんるおう)~第20代毗有王(ひゆうおう)には姓「解(へ)」

が記録されていません。

『三国史記』・『三国遺事』異伝に、

「解夫婁(へぶる)が治めていた北扶余は、その後太陽神の解慕漱(へもす)が天降り、解夫

婁は東に退去して別の國(東扶余國)を立てたと云う。」とあります。

この東扶余國が百済國の前身で、“王の名に解(へ)”が伝統的に継承されたと推測されます。

したがって、当時の百済王は「解」の姓があったことがうかがえ、「扶余王」を表わす「解」を名

乗れない事態、すなわち「第15代枕流王が殺害されたAD385年に倭国の属国」扱いとなったのでは

ないでしょうか。

ところが、『日本書紀-神功皇后摂政紀六十五年条(AD265年)』 記事は

「百済の枕流王薨御。辰斯王即位。」

『三国史記』と『日本書紀神功皇后摂政紀』の両記事には120年のずれがあります。ちょうど干支

が二廻り違います。

既に、『日本書紀』は多くの編纂者の手によって作成された書であることは述べました。

では、『日本書紀-神功皇后摂政紀』と『日本書紀-応神天皇紀』は、どちらが真実を伝えてい

るのでしょうか。

私見は、どちらも真実を伝えていません。辻褄合わせの記事です。

『日本書紀-神功皇后摂政紀』は、百済三書(『百済記・百済新書・百済本紀』)から参照または

引用していたことで知られていますが、『魏志倭人伝』が記す「卑彌呼を神功皇后」とする辻褄合

わせをしたため、120年後の記事を挿入しなければならなかったようです。

他方、『日本書紀-応神天皇紀』は、『宋書』倭国伝が記す「倭の五王」を暗示する辻褄合わせ

を含んでいます。

したがって、「応神天皇三年条」も、後世の「百済国辰斯王殺害事件」を切り取り、挿入したと

推測します。

 

次回は「履中天皇」です。

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