第六十一話  『古事記」が記す多遅摩毛理の系譜

写真 出石神社「禁足地」   出典:Wikipedia(2022/02/12 10:00)

神聖な場所に誰を祀っているのでしょうか。

写真  コウノトリ 出典:KOKOCARA

コウノトリを再びこの空にーー世界初の野生復帰を実現させた(豊岡)市民の地域力がすごい

写真  出石「永楽館」  出典:出石永楽館公式HP

明治34年創業 近畿最古の「芝居小屋」

○多遅摩毛理(たじまもり)とは

○もう一人のスサノオ

○但馬国の神社

○多遅摩毛理が常世の国に旅立った理由

1.多遅摩毛理(たじまもり)とは

「時じくの香の木の実」を求めて常世の国に多遅摩毛理を派遣した記事は、どのような意図

で太安万侶は記述したのでしょうか。

故百嶋氏のメモに不思議な系譜が記されています。

骨正1873歳-沾解尼師今1850歳-(多遅摩)比多訶1835歳 天日槍の玄孫・兄-多遅摩毛理

1815歳天日槍の玄孫・弟-葛城高額比売1790歳

「玄孫」とは、自分から四親等にあたる直系卑属。孫の孫。曾孫の子。やしゃごを指す意味で

使われています。

注釈)故百嶋氏が記す年齢

西暦2000年を基準としています。

例)骨生1873歳 2000-1873=生年AD127年となります。

故百嶋氏のメモを検討すると、玄孫に相当する人物はいません。

但し、「多遅摩毛理1815歳、妹葛城高額比売1790歳の年齢差は25歳」あり、葛城高額比売が

玄孫である可能性も考えられます。

いずれにしろ、多遅摩毛理に関して同氏のメモには理解しがたい点があるので、『記紀』及び

「伊豆志坐(いずしにます)神社」伝承から検証してみましょう。

(1)『古事記-応神天皇天之日矛段』

「天之日矛(妻は前津見)―多遅摩母呂須久―多遅摩斐泥-多遅摩比那良岐-多遅摩毛理・

多遅摩比多訶・清日子の三柱」

玄孫は多遅摩毛理・多遅摩比多訶・清日子の三人です。

(2)『日本書紀-垂仁天皇三年条』

「天日槍命-諸助(もろすけ 多遅摩毛呂須久)-日楢木(多遅摩比那良岐)-清彦(すがひ

こ)-田道間守(たじまもり)」

玄孫は田道間守です。

(3)伊豆志坐神社(現出石神社 兵庫県出石郡出石町宮内)伝承

「天之日矛命(妻は前津見比売)-多遅摩毛呂須久(たじまもろすく)-多遅摩斐泥(たじ

まひね)-多遅摩比那良岐-多遅摩比多訶(弟に多遅摩毛理と清彦)」

玄孫は多遅摩比多訶・多遅摩毛理と清彦の三人です。

以上の三史料から、玄孫の共通項は「多遅摩毛理(田道間守)」となります。

次に、同氏のメモの不審点は「天之日矛の御子は長髄彦ではなく沾解尼師今」としている点です。

長髄彦・沾解尼師今の生年は共にAD150年の同年です。

スサノオこと天之日矛命の斯羅国時代の名について、故百嶋氏は「骨生(こっせい)」と述べてい

ます。

玉帽夫人との間に誕生した御子は、新羅第十一代助蕡尼師今(じょふんにしきん)と新羅第十二

代沾解尼師今です。

『三国史記-新羅本紀』によると、二人の在位年代を(AD247~261年)としています。

故百嶋氏の説に従えば、二人の在位年代は80年ほど遡ることになります。

故百嶋氏と同様に私も『三国史記』を全く信じていませんので、在位年代は考慮する必要性はな

いと思います。

沾解尼師今と長髄彦が同年とするには、一つの条件が必要です。

スサノオが倭国へ移動する前に、玉帽夫人が既に沾解尼師今を妊っていて、櫛稲田姫との間に誕

生した御子長髄彦がたまたま沾解尼師今と同年の誕生であったとする条件が不可欠です。

いずれにしても、何となくすっきりしません。

2.もう一人のスサノオ

スサノオの弟伊賀は、父や兄スサノオが倭国に進出したことにより、次代の斯羅国王に最も相応

しい人物ですが、斯羅国内及び倭国においても事跡が何一つ存在しません。

歴史の中から忽然と消えているのです。

伊賀の生年は判然としませんが、スサノオより2歳年少と仮定すると生年はAD129年頃で、伊賀

の御子第10代斯羅国王奈解尼師今の生年はおよそAD150年と推測されます。

故百嶋氏は「奈解尼師今はAD154年に倭国へ渡来した」と述べています。

しかし、僅か4歳の幼児が一人で倭国へ渡来できるはずもなく、父親の伊賀と共に渡来したと推

測されます。

したがって、但馬国王の系譜はスサノオこと弟伊賀またの名多遅摩斐泥-多遅摩比那良岐こと

解尼師今-多遅摩比多訶(生年AD165年)-多遅摩毛理(生年AD185年)となります。

奈解尼師今は沾解尼師今の急死に伴い、AD173年頃に斯羅国に戻り、『三国史記-新羅本紀』

が記す新羅第十三代国王を継いだものの、AD184年に没し、79歳の祖父イザナギは急遽倭国から

帰還し、第十四代伐休尼師今として即位したと推測されます。

3.但馬国の神社

(1)出石(いずし)神社 兵庫県出石郡出石町宮内 但馬国一宮

祭神:天日槍命 出石八前大神(いずしはちまえおおかみ)

宝物は天日槍命が将来した8種類の鏡

社伝によると谿羽道主命(たにはみちぬしのみこと)と多遅摩比那良岐とが相諮って天日槍

命を祀ったという。

(2)日出(ひじ)神社 豊岡市但東町畑山

祭神:多遅摩比多訶 天之日矛四世孫

(3)比遅(ひじ)神社 豊岡市但東町口藤字山姥

祭神: 多遅摩斐泥

『日本書紀』が記す諸助(多遅摩毛呂須久)は祀られていないようです。

多遅摩比多訶は弟清日子の娘「菅竈由良度美(すがかまどゆらとみ)」との間に葛城高額比

売(かつらぎたかぬかひめ)が誕生します。

葛城高額比売と息長宿禰(しなすくね)の間に誕生したのが息長帯姫(しなたらしひめ)こ

と後の開化天皇の皇后神功皇后です。

図  出石神社周辺地図

4.多遅摩毛理が常世の国に旅立った理由

伯耆国に滞在していた孝霊天皇の病が重いことを知った多遅摩毛理は、AD230年頃永遠性の象

徴と言われる「非時香菓(ときじくのみ)」を求めて常世の国に旅立ちました。

常世の国とは、海の彼方にあるとされる異世界の理想郷とするのが通説で、タジマモリは渡海し

たと推測します。

「東海の古代」所属の石田敬一氏は、「非時香菓はコウライ橘ではないかとし、コウライ橘が自生

する済州島を常世の国」とする仮説を提起しています。

『記』編纂者の太安万侶は、孝霊天皇に関する事跡を贈垂仁天皇の事跡として換骨奪胎したと推

測されます。

多遅摩毛理の行動は、孝元天皇の御代に結実します。昔氏本家の末裔「屋主忍男武雄心命」が孝元

天皇の養子として迎えられたのです。

写真  コウライタチバナ 出典:山口県立山口博物館

果実は大きく径6㎝、日本では萩市のみに自生。済州島に自生。

表 天日矛(天日槍命とも表記=スサノオ)こと伊賀に関わる系譜

名前 関係 生年 またの名など
天日槍命 本人 AD127年 本当はスサノオの弟伊賀
前津見媛 天日槍命の妻 不明  
多遅摩比那良岐 伊賀の御子 AD150年 奈解尼師今
多遅摩比多訶 多遅摩比那良岐の御子 AD165年  
菅竈由良度美 多遅摩比多訶の妻 不明  
息長宿禰王 葛城高額比売の夫 AD200年 父建御名方母奈留多姫
葛城高額比売 父多遅摩比多訶

母菅竈由良度美

AD210年  
息長帯比売 父息長宿禰王

母葛城高額比売

AD226年 神宮皇后
開化天皇 父孝霊天皇

母倭跡跡日百襲姫

AD225年  

 

次回は「景行天皇」です。

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました