写真 糸井神社拝殿内の奈良県指定文化財「踊り絵馬」
伊勢神宮のおかげ参りの様子を表わした絵馬で、御幣や扇・幟を持って整然と躍る人々が活き活きと描かれています。出典:奈良の宿大正楼
○文化の渡来
○『記紀』は、なぜ贈応神天皇に関する説話が乏しいのでしょう。
○莵道稚郎子(うじのわかいらっこ)とは
1.文化の渡来
(1)百済王から縫衣工女献上。
縫衣工女(ほういこうじょ)とは、機織(はたおり)技術の一つである「綾織(あやおり:斜めに交差する織物・模様のある絹織)技術を持った工女」と考えられます。
献上理由は、孝霊天皇が百済に和知都美命(わちつみのみこと)こと宇摩志麻遅命(うましまちのみこと)を派遣した答礼と考えられます。工女等を祀る神社は以下のとおりで
す。
・呉服(くれは)神社 大阪府池田市宝町
祭神:機織女呉服(はたおりめくれは)・穴織媛(あなおりひめ)・兄姫(えひめ)・弟媛の四柱
呉服と云う名から、百済からの献上には疑問符がつきます。
写真 呉服神社 出典:池田市観光協会公式サイト
・綾延(あやのべ)神社 愛媛県西条市
ご祭神:綾織神
・糸井神社 奈良県磯城郡川西町結崎
写真 境内に咲く額紫陽花 出典:奈良の宿大正楼
本殿:豊鋤入姫命(とよすきにゅうひめのみこと=豊受気姫)
二宮:猿田彦命
三宮:綾羽明神(あやばみょうじん)
四宮:呉羽明神(くれはみょうじん)
写真 垂直織機 伝統的な織機を使うコンヤ(トルコ)の女性
垂直織機はおそらく最初に発明されたようです。
出典:Wikipedia (2021/10/26 12:40)
写真 伝統工芸品「大島紬」 出典:大島紬村
手で紡いだ絹糸を泥染めしたものを手織平織りの絹布
(2)百済照古王(しょうこおう)から派遣された王仁(わに『記』では和邇と表記)が論語十
巻・千文字一巻を献上 。
照古王について、通説は百済第十三代近肖古王(きんしょうこおう 在位375年~384年)
としていますが、正しくは肖古王(在位166~214年)です。
『記紀』ともに孝霊天皇時代の事跡を贈応神天皇の事跡に書き換えています。
通説は、「倭の五王“讃”」を意識しているのでしょう。
(3)百済から酒造技術が伝えられる。また秦造の祖・漢直の祖が渡来。
倭国における「酒造りの神」について、故百嶋氏は恵比寿様こと事代主と指摘しています。
中国文献が記す倭国の酒造記事は
・『論衡(ろんこう)』
「成王時 越裳獻雉倭人貢鬯」
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」
Wikipediaによれば、鬯草(ちょうそう)とは、酒に浸して作成した薬草のことで、周
の成王の時代(紀元前1000年頃)に日本列島内で何らかの酒類が存在していたことが知
られています。
・『魏志』倭人傳
「喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬」 「人性嗜酒」
倭人が酒を嗜んでいたことがわかります。
通説によると「酒造りの神を秦造」としていますが、故百嶋氏は「酒造りの神を事代主」としています。
「秦造(はたぞう)」について、『新撰姓氏録』は、秦の始皇帝の末裔で応神14年(283)、百済から日本に帰化した弓月君(ゆづきのきみ 融通王)の祖としていますが、故百嶋氏は「弓月君はトルコ系匈奴の越智族金氏の一派」と指摘しています。
「秦造」が、秦の始皇帝の末裔ならば、姓は「嬴(えい)」であるはずです。また徐福(じょふく)の末裔でもありません。
したがって、『新撰姓氏録』の記事には疑問が残ります。
「漢直」も“あや(綾)のあたい”と名乗っているのが疑問です。
『続日本紀-延暦14年(785)6月条』によれば、阿智王(あちおう)は七姓(朱・李・多・皁郭
(ふかく)・皁(ふ)・段(たん)・高)漢人と共に渡来したと記されています。
“皁”とは「しもべ」の意で、阿智王は「綾の製造技術集団」を引き連れ、3世紀後半に百済から渡来したと考えられます。
2.『記紀』は、なぜ贈応神天皇に関する説話が乏しいのでしょう。
誉田別命(ほむたわけのみこと)こと贈応神天皇が、ツヌガアラシトこと中臣烏賊津臣(なかとみいかつおみ)と共に氣比(けひ)大社でスサノオに対して“服属儀礼”の儀式を行ったことは紹介しました。
贈応神天皇に関する『記紀』記事は、同天皇の“活躍譚”は皆無で、スサノオ一族に関する記事であふれています。
そして舞台は「但馬国」に集中しています。おそらく、スサノオ一族と誉田別命との濃厚な接触譚を匂わせていると考えられます。
3.莵道稚郎子(うじのわかいらっこ)とは
『記』は莵道稚郎子が天皇位を継ぎ、他方、『紀』は莵道稚郎子が太子であったが、天皇位を大雀命(おおささぎのみこと)に譲ったと記しています。
そのため一部の学者は天皇に即位したとする説を展開し、その傍証として『播磨国風土記』の“宇治天皇の御代”という記事を引用しています。
莵道稚郎子は、少年期の開化天皇と乳母の豊媛(ゆたひめ)との間に誕生した“なさぬ仲”の皇子であることは紹介しました。
莵道稚郎子が天皇位への野望を持っていたとしても叶えられなかったでしょう。
莵道稚郎子の子孫に関して『記紀』は全く触れていないので、おそらく死を与えられたのでし
ょう。
次回は「仁徳天皇」(1)です。