写真 反正天皇陵(田出井山古墳)
百舌鳥古墳群北端にある全長148㍍の前方後円墳
五世紀中頃の築造といわれる。出典:世界遺産プラス
○正統な天皇ではありません.藤原氏によって贈られた贈天皇です。
○多遅比瑞歯別天皇(たじひみずはわけてんのう)とは
○丹比の柴籬宮
○皇后・妃及び皇子・皇女”
1.正統な天皇ではなく、藤原氏によって贈られた贈天皇
「別天皇(わけてんのう)」は正統な天皇ではなく藤原氏によって贈られた贈天皇です。
故百嶋氏は、藤原氏について「贈崇神天皇(素戔嗚尊・天日槍命 系)すなわち大中臣です。大年神(海幸彦・天忍穂耳命)の子供の一人に御年神即ち中臣です。そして、これを中心として混血をして
出来たのが後の藤原鎌足です。そこで、いろいろ混血しているので、海幸も祀る、山幸も祀る、御年神
も祀るということになっている。」と、述べています。
私見は、履中天皇の(奈良県桜井市)磐余若櫻宮と反正天皇の(大阪府松原市)柴垣之宮と離れすぎてお
り、両天皇の関連性も乏しく、親子関係はなく、下位者の反正天皇による下克上によって、その地位
を奪ったのではないかと推測しています。
そして、これ以上「下克上」を看過できないと判断した九州王朝によって、反正天皇は粛正されたの
ではないかと推測しています。
実行部隊は、竹内宿禰の末裔葛城氏・平群氏・巨勢氏などが推測されます。
謎の神社 方違(かたちがえ)神社 大阪府堺市堺区三国ヶ丘町2丁
・由緒
摂津・河内・和泉の三国の境界なるが故に“三国山”また“三国丘”とも称され、この三国の境(ちな
みに“堺”の地名はこれに由来する)で、どこの国にも属さない方位の無い清地(すがち)であるという
考え方により、その境内の御土と菰の葉にて作られた粽(ちまき)は悪い方位を祓うという信仰を以て、古きより方災除の神として御神徳を仰いでいます。
写真 方違神社「粽祭」例大祭毎年5月31日 出典:大阪府神社庁
私の調査不足かもしれませんが、瑞歯別天皇を祀る神社の候補として、松原市の「田坐神社・高
見神社」が該当しますが、本来のご祭神かどうかわかりません。
2.多遅比瑞歯別(たじひのみずはわけ))天皇とは
『天皇陵古墳への招待 森浩一著筑摩書房p23~24p』
「鋳物作りでは木型から土の鋳型を作ることが重要であった。(中略)鋳物土はさらさらしていたがそれなりの粘りがあって、丹比(たじひ、地元ではたんぴ)の土と呼ばれていた。(中略)この土は河内狭山市と富田林市との境の羽曳野丘陵西部の五軒家に産出する土であった。その辺りは、古代から河内国の丹比郡であるため、丹比の土と呼ばれていたのである。」と記しています。
以上から、多遅比瑞歯別天皇は現在の羽曳野市周辺を支配地としていたようです。
「瑞歯は立派な前歯」を意味し、支配者の持つ身体的特徴の一つでもあります。
『古事記』は「歯の長さ1寸、広さ2分」と記しています。
写真 鋳物の作り方「鋳物土と木枠」 出典:新東工業(株)HP
図 羽曳野市丹比周辺地図
3.丹比の柴籬宮
現在の松原市上田付近(田坐神社周辺)と推測されていますが、遺構の出土は現在まで報告されていません。
写真 反正天皇陵(田出井山古墳)
百舌鳥古墳群北端にある全長148㍍の前方後円墳
五世紀中頃の築造といわれる。出典:世界遺産プラス
図 反正天皇陵周辺図
4.皇后・妃及び皇子・皇女
(1)大宅臣の祖木事(こごと)の娘津野媛を立てて皇夫人とす。御子は香火姫(かひのひめ)皇女・圓(つぶらの)皇女の二柱。
大宅臣は山背国宇治郡山科郷・大和国添上郡大宅郷を本拠地とした氏族で贈孝昭天皇こと天忍穂耳命(あめのおしほみみみのみこと)の後裔氏族とするのが通説です。
故百嶋氏は講演会で「阿蘇族は山背国宇治郡へ移動後は名を多氏から宇治氏に改めた。」と述べています。
通説は始祖和邇氏としていますが、和邇氏は大和国へ移動後は「春日氏」に名を改めていますので、大宅臣は阿蘇族の後裔氏族と推測されます。
津野媛・香火皇女・圓皇女は不詳です。
(2)皇夫人の妹弟媛との御子、財(たからの)皇女・高部皇子の二柱。
財皇女・高部皇子は不詳です。
次回は「允恭天皇」(1)です。