写真 盟神探湯に用いられた「探湯瓮」 出典:四天王寺HP
○雄朝津間稚子宿禰とは
○何故、雄朝津間稚子宿禰は天皇位即位を固辞し続けたのか
○允恭天皇の皇后・妃と皇子・皇女
○盟神探湯の実施
○玉田宿禰の粛正
1.雄朝津間稚子宿禰とは
久留米市の高良大社麓に「朝妻町」という地区があります。
図 久留米市朝妻町周辺の地図
私は平成28年7月に、妻の縁戚に繋がる久留米大学大学院比較文化研究科学科長であった大矢野栄次教授を何度も尋ね、その度ごとにご教示を頂きました。
おかげで、久留米大学周辺を何度も歩き、わからない点は畏友古川清久氏にアドバイスを頂きました。
当時から「允恭天皇の諱朝妻雄朝津間稚子宿禰の”朝津間“と”朝妻町“」との関連性を考えていました。
奈良県御所市に「朝妻」地区があります。同地区の西部には高天原神社・金剛山があり、北部には葛城一言主神社もあるのですが、周囲には允恭天皇との関連性は見えません。
「朝妻」の地名は、葛城氏の移動により久留米市から御所市へ東遷したようです。
図 御所市朝妻地区周辺地図
仁徳天皇東遷後、九州王朝は留守居役坂本命に委ねられていました。坂本命の役割は「九州王朝の盤石な体制作りと対外折衝」でした。
仁徳天皇が西暦300年前後に難波で薨去し、俄に九州王朝の暗雲が広がります。
それは、仁徳天皇の後継を廻る意見の衝突でした。
朝鮮半島に築いた「任那・安羅伽耶・大伽耶・卓淳国など」と関係する有力豪族の存亡にもかかっていました。彼らの一部は坂本命を支持したかもしれません。
最終的には、仁徳天皇の皇太子大草香皇子は高良山を出て、八女市から菊池川流域玉名郡へ移動し、第二次九州王朝を樹立をめざします。
他方、坂本命は既に高齢にさしかかっており、また摩擦を避けるために天皇位即位を固辞しました。
ところが、坂本命も仁徳天皇の跡を追うように逝去したのです。
坂本命を支持していた有力豪族は、窮余の策として坂本命の嫡男「雄朝妻宿禰」を後継者に指名し、説得工作を続けました。
「雄朝津間稚子宿禰」の諱は、この説得工作時代に付けられたと推測します。
2.何故、雄朝津間稚子宿禰は天皇位即位を固辞し続けたのか
雄朝津間稚子宿禰は父坂本命と同様に天皇位即位を固辞しました。
大きな理由は大草香王との対立を避けるためです。
しかし、問題は生やさしものではなく、大きく分けて、九州王朝は二派に分裂しました。
故百嶋氏は具体的に言及していませんが、この事態を「第一次九州王朝の終焉」と表現したのではないでしょうか。
3.允恭天皇の皇后・妃と皇子・皇女
(1)皇后忍坂大中姫との間に木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)・名形大娘皇女(ながたのおおいらつめみこ)・境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)・穴穂天皇・軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)・八釣白彦皇子(八里の斯羅彦の御子)・大泊瀬稚武天皇・但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらっこのみこ)・酒見皇女(さけみのみこ)の九柱。
皇后忍坂大中姫(おっさかおおなかひめ)について、『日本書紀』補注で「応神天皇の妃、河派仲彦(かわまたなかひこ)の娘弟媛との御子稚野毛二派(わかぬけふたまた)皇子の娘」と記しています。
応神天皇は「別天皇(わけてんのう)」で正統な天皇ではなく、仁徳天皇と同時代の人物です。
したがって、忍坂大中姫の経歴は不明と云わざるを得ません。忍坂(おっさか 押坂とも表記)という地名は、現在の桜井市東部地区(桜井市赤尾町)に比定されています。
忍坂山口坐(おしさかやまぐちにます)神社 桜井市赤尾町
同社は「延喜式祝詞」に記される山口社六社(飛鳥・石寸・忍坂・長谷・畝火・耳無)の一社で「延喜式」神名帳では、大社に列しています。
ご祭神:大山祇命(おおやまづみのみこと)
何故か、稚野毛二派皇子・忍坂大中姫は祀られていません。
したがって、忍坂大中姫は大和国内の人物ではない可能性も認められます。
写真 忍坂山口坐神社のご神木「クスノキ」
注)クスノキ
暖地に生え、古くから各地の神社などにも植えられ、巨木になる個体が多い。材から樟脳が採れる香木として知られ、飛鳥時代には仏像の材として使われました。
朝鮮半島では生育しません。
晩秋から冬にかけて落葉が多く、清掃は大変です。
4.盟神探湯の実施
「姓(かばね)」が無秩序となり、それを正すために「群郷百寮・諸国国造等に盟神探湯」を実施しました。
おそらく、真の狙いは「忠誠心」を諮ったのでしょう。
『日本書紀』補注では「百寮をまへつきみ」と訳していますが、文字通りに読めば「群と郷の首長」で、「百寮は行政・司法・軍事の長官」と推測します。
しかし、統治体制から見ると「国造と群郷の首長の関係が逆転」しています。その矛盾を糊
塗するため「群郷をまへつきみ」と注釈したのでしょう。
「群郷とは九州王朝を支えた有力豪族、具体的には白川伯王家・瀛氏金山彦・越智族金氏など」と推測します。
注)盟神探湯
古代日本で行われていた神名裁判。ある人の是非・正邪を判断するため、探湯瓮(たんとうへ)という釜で沸かせた熱湯に手を入れさせて、その手がただれたら、その人の主張は偽りであるとされた呪術的な裁判法
写真 盟神探湯に用いられた「探湯瓮」 出典:四天王寺HP
5.玉田宿禰の粛正
允恭天皇、葛城襲津彦の孫玉田宿禰に瑞歯別天皇の殯(もがり)宮大夫を命じましたが、玉田宿禰はその命に従わないので、尾張連の吾襲(あそ)を偵察に向かわせたところ、玉田宿禰は吾襲を密かに殺していました。
この暴挙に怒った允恭天皇は采女に兵を授けて玉田宿禰の家を襲撃し、粛正しました。
同記事は、瑞歯別天皇が殯宮大夫に玉田宿禰を任命すること自体が不思議です。本来ならば、瑞歯別天皇の皇子・皇女が担うべき役職です。関係の乏しい玉田宿禰が任命されるはずもありません。
また采女の役職も不明で、固有名詞がないのも不思議です。
同記事は、允恭天皇による玉田宿禰粛正事件ではなく、玉田宿禰が葛城襲津彦の孫と自称していたため、葛城氏宗家が粛正したと推測しています。
次回は「允恭天皇」(2)です。