第百四十八話  番外編「高松塚古墳」

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写真 西壁女子群像   出典:国営飛鳥歴史公園HP

先頭の女子は「翳(サシバ)貴人の顔を隠す長柄の団扇」三番目の女子は「如意(ニョ

イ)」右端は「「払子(ホッス)僧が威儀を示すための法具」を持っています。

○高松塚古墳

 

 

1.高松塚古墳

(1)発見の経緯

昭和37年頃、明日香村檜前の村人がショウガを貯蔵しようと直径約60㎝の穴、現在の墳丘

南側を掘ったところ、穴の奥で凝灰岩の四角い切石が見つかったことが発端となりました。

その後昭和45年(1970)に古墳近くに遊歩道設置のための調査が必要となり、奈良県立橿原

考古学研究所に発掘調査が依頼されました。昭和47年3月に末永雅雄博士指揮の下、関西大学

網干善教助教授を中心とした関西大学・龍谷大学の研究者・学生グループによって高松塚古墳

の発掘調査が始まりました。発掘調査から間もない3月21日には極彩色の壁画が発見されまし

た。(中略)

極彩色壁画の発見はまれにみる大発見として、26日に新聞で発表され、日本中でトップニュー

スとなりました。(国営飛鳥歴史公園HPより)

(2)石室と壁画

石室の寸法は南北の長さが約265㎝、東西の幅は約103㎝、高さが約111㎝と狭く、平らな底

石の上に板石を組み合せた造りです。

壁画は石室の東・西・北壁、天井の四面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上

に描かれています。

東壁には手前から男子群像、四神の青龍とその上の太陽・女子群像が描かれ、西壁にはこれ

と対称的に手前から男子群像、四神のうち白虎とその上の月、女子群像が描かれています。

奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれています.天井画は円形の金

粉で星を表わし、星と星の間を朱の線で繋いで星座を表わしています。

出土品は漆塗りの木棺の残片のほか、棺に使われていた金具類・銅釘、副葬品の太刀金具・海

獣葡萄鏡・玉類(ガラス・琥珀製)でした。

(国営飛鳥歴史公園HPより)

写真 東壁 青龍   出典:文化疔

写真 西壁 男子群像   出典:高松塚古墳壁画再現展示室

左端の男子は「胡床(コショウ)折りたたみ式の椅子)」、左から二番目の男子は「武具

の入った赤い袋」を肩に担ぎ、左から三番目の男子は「鞄」を首に掛け、右端の男子は

「毬杖(キュウジョウ)鞠を打つ遊具)」を持っています。

(3)発掘50年を経過して忘れられたこと

発掘当時の高松塚古墳の周囲は竹林に囲まれていて、こんな所に古墳があるとは思えない

地でした。

サラリーマンを59歳で退職し、妻の両親の介護のため松山で五年間暮らしたある日、思いがけ

ない人物に出会いました。

地元有志が道後温泉第二の湯を “女帝の湯”と命名するシンポジウムに、当時奈良県立橿原考

古学研究所所長菅谷文則氏と再会し、高松塚古墳発掘当時の思い出話で暫し歓談しました。

話題は「頭蓋骨がなかったこと」に集中しましたが、直ぐに忘れてしまいました。

忘れてしまっていた記憶を呼び覚ましたのが、ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎“を主催す

る伊藤まさこ氏の「No175 高市天皇の薨去と謀反事件」の記事でした。

以下は、同記事の抜粋です。

①頭蓋骨がなかった。埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた。

②鞘のみで太刀の刀身が抜き取られていた。

③日月像と玄武像が削り取られていた。

故梅原猛氏は①~③の事象は「呪いの封印で、被葬者の“ヨミガエリ”を阻止するものであっ

た。」と指摘しています。

 

写真 天井東西壁 左「月像」 右「日像」 出典:高松塚古墳壁画再現展示室

見事に削り取られているのがわかりますね。

 

写真  北壁「玄武」   出典:高松塚古墳壁画再現展示室

見事に削り取られているのがわかりますね。

(4)被葬者は誰か

壁画の女子群像からは「仏法に帰依した高位の貴人」、男子群像からは「高位の貴人」、

天井の日月像からは「支配者」、北壁の玄武像からは「北の星宿の神格化である玄天上帝、す

なわち天皇」を指すと推測されます。

高松塚古墳の被葬者について、 私見は伊藤まさこ氏と同様に高市皇子(高市天皇)説です。

その根拠は「頭蓋骨のの持ち去り、日月・玄武像の削り取り、また太刀の刀身の抜き取り行

為の目的は、被葬者の存在を徹底的に隠し通すと共に、ヨミガエリを阻止する」ものであった

と考えられます。

高市皇子説は民間の考古学研究家故原田大六氏、元橿原考古学研究所の河上邦彦博士、SF作

家豊田有恒氏などがあります。

 

次回は「持統天皇」です。

 

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